黄色い列車

黒田 那津也



 空は澄み渡り、星はちかちかと瞬いていた。金属でできた僕のからだは、冷たい空気に、縮み上がっていた。せめて……と僕はいつも思う。せめてこの寒い間だけでも、列車庫に扉があったらと。
 春とは名ばかりのこの季節、まだ暗いうちから、僕たちの仕事が始まる。しんと静まった夜に、何かが動き始めるような、そんな気配がしはじめたら、僕たちの仕事はもうすぐ始まるのだ。運転士の詰め所の明かりがついて、しばらくすると足音が聞こえる。白い息を吐きながら、松田さんは僕に近づいてくる。下弦の月は松田さんの影を僕に投げかける。新しい会社になって以来の少しモダンな制服が、松田さんには窮屈そうだ。
「やあ、おはようさん。寒いなあ。今日も頼むで」
 寒い時期の僕たちには、十分な暖機運転が必要だ。エンジンがかけられた僕のからだは、なかなか暖まらなくて、僕は空に星が光っているのを見上げてため息をついた。向こうの線路では特急列車の中に、運転士用のドアから顔を半分覗かせている運転士が見えた。大きな都市に向かう上りの特急電車は、パンタグラフをぴたりと架線に付け、静かな闇の中で白くてぴかぴかしたからだを浮かび上がらせていた。
「昔の気動車はな、冬になると一晩中エンジンを切らんでおったんじゃ」
 松田さんは両手を静かにこすりながらいった。
「えっ、だって誰も乗らないんでしょう?」
 と、僕はいった。
「古いやつはな、寒いとな、まずエンジンがかからん。エンジンをかけてそれが暖まるまでには、えらい手間がかかるのよ。だからな、エンジンかけっぱなしじゃ」
 僕は、静かな夜にいくつかの気動車がからからと音を立て、あたたかそうな湯気を冷却器のあたりから漂わせながら、氷のつぶみたいなオリオン座をそっとながめる姿を想像した。
 松田さんは僕たちと話ができる、数少ない人間の一人だ。運転士や、整備士だからって、必ず僕たちと話せるとは限らない。マニュアル通りに僕を運転したり、整備したりする人とは話ができない。僕らの声が聞こえないのだ。
 でもときどき乗客に話せる人がいてびっくりしてしまう。遠くの街から来た列車マニアの少年と、普段は指を使って人と話す女の人だった。
 列車マニアの少年は、僕たちと話をしたり、僕たちの写真を撮ったりするのが大好きだといった。途中駅で降りて僕の写真を撮った。僕はちょっと照れながら、一眼レフカメラのレンズを見つめた。この先も乗るのかと思ったら、二時間半後にやってくる別の列車で帰るのだといった。暑い夏のことだった。蝉時雨が響く谷あいの駅で、彼は二時間半もどうやって過ごしたのだろうか。
 女の人は僕と松田さんの世間話が聞こえたらしくて、とてもとまどっていた。僕は彼女に話しかけてみた。列車マニアの少年に話しかけたときみたいに。でも彼女はとまどうばかりで、最後まで僕と話をしなかった。彼女はやがて目的の駅で降りると、ホームでいつまでも僕のことを見送った。それきり僕は、彼女を乗せてはいない。
 白い特急電車が、エネルギーをからだにみなぎらせ、ホーンを鳴らして一足先に列車庫を後にした。松田さんにさっと手を挙げて挨拶する運転士の姿が小さな窓から見えた。大きな都市との間を往復する特急電車は僕より少し自信ありげに走る。普通電車も後に続く。銀色のボディーを持ち、複線を走る四両編成の通勤列車。彼らは列車として洗練された姿を持っている。
「じゃ、お先にね」
 僕は違う。ときどき黒い煙を吐いて一両で単線を走るディーゼルエンジンの気動車だ。黄色いボディーに小さなつばめのマークが目印のワンマン列車だ。車掌が乗らないから、無人駅では松田さんたち運転士が、切符や運賃を受けとる。ぎりぎり赤字を出さないでいる路線だ。でも収益のことなんて、僕も松田さんも考えないで走っている。そういうことは、大きな駅の建物の中にいつもいる人がすることだ。
「さあて、行こうかのう」
 エンジンを十分暖めて、松田さんはマスターコントロールハンドルをゆっくりと動かした。僕のからだはぶるぶると振動して黒い煙を吐き列車庫を出た。あたりはまだ街灯がついていて、空には星が瞬いていた。だけど、東の空がうっすらと明るくなっているのがわかった。僕は駅までの短い距離を走る、冷たい朝の雰囲気がとても好きだ。駅のホームには蛍光灯がついていてそれがだんだん近づいてくる。コートを着てマフラーをした人がもう何人かホームに立って白い息を吐いている。みんな暖房を効かせた僕のからだに入り込みたくて、足踏みをしてる人さえいる。
 松田さんはハンドルを戻し、ブレーキをかけた。僕は静かにホームに滑り込んだ。松田さんはいつもぴたりと、定位置に僕を止める。そしてドアを開ける。ホームに立っていた乗客たちがゆっくりと僕に乗ってくる。そしてできるだけドアから離れた席に座る。あたたかな僕の中で、ほっとため息をついたり、赤くなった鼻をこすったりする。東の空に闇を突いて金星が光っている。一日が、始まったのだ。
 定刻、信号が青に変わると、松田さんは電話の受話器みたいなマイクで乗客に注意を促す。そして静かにドアを閉める。きりりとした空気の中を僕は静かに前に進む。駅構内のポイントのたびに僕のからだは左右に揺れ、確実に線路を選び取るようにして、次の駅へと下った。
 朝の静寂を破るように僕はがたごとと鉄橋を渡る。枕木の隙間から見える川面は明るくなり始めた空を反射して、風にさざめいていた。河口近くの川をかもめが飛ぶ。平行して架かっている橋の街灯には何羽ものかもめが翼を休めたり、羽を整えたりしている。
 鉄橋を過ぎると僕は少し右に傾いでカーブを走る。踏切が赤いランプを点滅させている。ここで僕は少し優越感に浸る。僕が通るから、車や人は通せんぼされるのだ。そこのけそこのけ、僕が通る。踏切はまだ誰もいない道路を律儀にさえぎり、警報音を鳴らしていた。あたりは少しずつ明るくなって、区画整理された後にたった新しい家々が次第にはっきり見え始めた。民家の庭に咲き始めたばかりの白梅がぼうっと景色に浮かぶ。梅はそっと主張し始める。春が来たと。とはいえあたりの空気はきいんと冷たい。顔をなでる冷たい空気と暖房でほくほくしたお腹の中の気温の差は大きくて僕はどうにかなりそうだ。小さな丘の陰を過ぎるとぱっと田んぼが広がる。やがて標識が見える。もうすぐ次の駅だ。線路は再び民家の隙間に入り込む。松田さんは車内アナウンスのスイッチを押した。
「まもなく○○です。お降りの方はお忘れ物のないよう、ご注意ください」
 そして少しずつ僕を減速させ、駅のホームにぴたりと停車させた。ここで三人ほど乗客を乗せて、信号が縦三つに並ぶのを待った。青信号と同じ「進め」の合図だ。ここの信号は古いのだ。
「松田さんはずいぶん昔から運転士をしているけど、たまには違うお仕事をしたいとは思わないの?」
 僕は松田さんにそう訊いてみた。そのとたん、信号が変わって松田さんはマスターコントロールハンドルを動かし、僕はあわててお腹のエンジンをぶるぶるいわせた。
「あまり考えんねえ」
 松田さんはそっと答えた。僕の車体は運転席と客席の間がきちんとドアで仕切られていないから、もしかしたらお客に聞こえるかもしれないのだ。
「あんたはきちんということを聞いてくれる。運転席にいつも乗っていると、今年もこうして春が来たんやと感じることができる。そりゃ、世の中にはいろんな仕事がある。もっといい仕事があったのかもしれんわな。でも満足しているよ」
 松田さんはちらと運行表に目をやった。右カーブの手前で減速した後、僕は緩やかに右に傾いだ。あたりには耕す前の田んぼが広がった。そしてすぐに左カーブに入った。この左カーブには少しだけ桜並木がある。桜の季節にはまだ早い。僕の走る音に驚いて、何羽かの鳥が桜の木から飛び立った。僕は鳥の行方を目で追った。あたりは太陽こそ見えないけれどすっかり明るくなった。今日はきっといい天気だ。
「ねえさっきの鳥は何だろう」
「大きかったからね、ひよどりか何かやないのかい?」
「飛べるっていいねぇ」
 松田さんは答えずに少しだけ加速した。僕らは小さな鉄橋を越え、やがて次の小さな駅に着いた。
 松田さんはホームに出て寒そうにしている嘱託駅員ににっこり手を挙げた。四人が僕から降り、十人くらいが乗り込んだ。
「鳥は鳥でたいへんなもんだよ、冬は餌もないし巣には屋根もない」
 ドアを閉めてブレーキハンドルを向こうに回し、マスターコントロールハンドルでゆっくり加速し始めた松田さんは急にそんなことをいった。さっきの話の続きみたいだ。
「だって、鳥は飛べるんだよ」
 僕がそういったら、松田さんはふっふっと笑った。本当はもっと大きな声で笑いたかったんだけど、お客さんが見ているかもしれないから我慢したみたいだった。
「飛べるのがそんなにうらやましいかねぇ」
 松田さんはさらに加速した。僕はうんうんうなりながら走った。
「高く飛べるんだよ。あちこち飛べるんだよ。僕が毎日見ている景色とは、違うものが見られるよ」
「そりゃそうだろうよ」
 松田さんはしばらくだまって正面を見て運転をしていた。きっと鳥について考えていたに違いない。僕も鳥のことを考えた。きっと鳥なら、誰よりも早く朝日に照らされるに違いない。高いところから地上を見下ろし、家々の屋根や田んぼや、そして僕がまだ見たことのない海を見ることができるんだ。
 僕はトンネルに入った。暗い中を、敷かれたレールの通りに走れば、まもなく次の駅に着くはずだった。僕は松田さんの指示通り、少しだけ速度を落として走行した。やがて、自動列車制御装置の警報が鳴った。赤信号が見え、僕と反対方向に走る列車が駅のホームで待っていた。松田さんはさらにブレーキをかけ、左手で手早く警報を解除した。僕たちは列車同士ちょっとだけにっこりし、松田さんは僕がホームのいつもの位置に止まるよう、手際よくブレーキハンドルをさばいた。僕たちはホームを挟んで互い違いに並んだ。向こうの列車には、平日ならいつものことだけどけっこうお客が乗っていた。
「今日も重そうだね」
「この時間はまだいい方だよ。君こそ、この後、高校生がどっと乗り込むんだろ」
 上り列車は、頭のてっぺんからゆったりとあたたかな空気を吐いていた。たぶん僕も同じだ。僕たちが走るこの路線には、架線がないから電車が走れない。僕たちのような気動車が走る線路だ。
 上り列車は信号が青になったのを確認して一足先に出発した。下りも信号が青になったが、松田さんはしばらく時計とにらめっこをして、それからドアを閉め、ブレーキハンドルを元に戻した。僕はぶーんとうなって黒い煙を吐いた。
 僕のお腹は駅に止まるたび少しずつお客で重くなっていく。まだ空席はあったけれども。その空席を狙って、お客たちは無言で争う。ホームのどの位置に僕が止まるのかだいたい覚えていて、ちょうどドアが来る位置にみんなばらばらと立っている。一列に並んでいたらいいのにと僕は思う。でもみんな並ばない。ドアが開くとみんな、角が立たない程度に、でもできるだけ我先にと車内に入ってくる。最初から諦めている人もいる。その人たちは少しくらい空席があっても座らないで立っている。困った人もいる。鞄で隣の座席まで確保する。お年寄りが立ってても、「座りたきゃ、声をかけてくるだろう」と知らんふりしている。僕に手があったらと思う。手があったら、そんな奴、首根っこをつかんで窓から放り出してやるのに。
「まぁまぁ」
 松田さんが笑う。なんだ、聞いていたのか。
「ごらん、声をかければ、みんな鞄を引っ込めるし、すすんで自分の席を譲る人だっているよ。シルバーシートにすすんで座る人だっていない」
 松田さんがいうには、人は小さな秩序をもって列車に乗っているのだそうだ。
「都会の人のことはわからんよ。でもこの辺じゃね。たいていの人は争いが好かんし、争う人も好かん」
「ふうん」
「せいぜい高校生が、次の駅で乗り込む友達のために席を確保するくらいやろう」
 そう、それはまるでゲームみたいだ。椅子取りゲーム。ドアが開くと同時にホームから駆け込んで、空席に鞄を投げ込むのだ。さすがに他のお客から苦情が出たみたいで、駅に防止のポスターが貼られ、学校に直接注意があったらしい。それ以来、あまり派手な椅子取りゲームは行われなくなったけれど。高校生の鞄は重くて、投げ込まれたりすると腹に堪えるのだ。
 ホームを離れるとき、ふと水仙の香りがした。今の時期、ホームに植えられた植物なんて葉ぼたんくらいしかないけれど、水仙はホームの片隅にひっそりと咲いていたのだ。毎日、同じ路線を往復している僕にとって、季節を感じることは小さな喜びのひとつだ。お客は気付いているのだろうか、同じ景色が、季節によってこんなにも異なっていることを。かすかに水仙の花を揺らし、僕はホームを後にした。
 風景は次第に山の中へと変わっていった。狭い谷あいをぬうように線路は続き、登り坂で僕はうーんとうなって黒い煙を吐いた。視野が開けばそこには田んぼや畑が広がり、点々と民家が建っていた。途中小さな鉄橋や古い煉瓦のトンネルをくぐり、駅で仲間たちとすれ違いながら、僕は始発駅から約一時間半をかけて終点の駅にたどり着いた。昔のお城があったり、どこから始まってどこで終わるのかわからないような小さな商店街がある街の駅だ。僕はここでにきびの吹いた高校生や、仕事が待ってる大人を降ろして一息ついた。
 特急なら、そう、こんな路線でも一日三本、気動車の特急が走るのだ。さらに二時間ほど下って県庁所在地あるの大きな駅まで走る。その途中で、観光客がやってくるような大きな山を越えるのだそうだ。特急から訊いた話だ。僕は行ったことがない。
「冬はとても寒いんだ。高い山だからね。ときどき雪が積もるよ。山の中にはさらに火山があって火口からはいつも煙が出ているよ」
 特急はディーゼルエンジンのすすで屋根が曇った、三両編成の赤いボディーを光らせながら列車庫の中で僕に語った。僕の知らない世界だ。僕は、知らない世界の話を聞くのが大好きだ。できれば本当に見てみたいと思う。でも見られない。僕はこの駅でUターンして始発駅に戻るのだ。
 松田さんは、運転席の運行表やらハンドルやらをはずし、今まで後ろだった運転席に移動した。十五分後、僕は今までとは逆向きに走り出すのだ。お客は静かに乗り込み、発車時刻を待った。
「この先に行ってみたいと思ったことがあるよ」
 と、僕は遠慮がちにいってみた。
「そうかい?」
 なんでもなさそうに松田さんはいった。
「線路が続いてるだけや。なんも変わりゃせん」
「でも僕、見てみたいんだ。僕の知らないところやなんかを。火山があって大きな街があるって聞いたよ」
 松田さんはにっこりした。その顔にはなにか懐かしさとか、ちょっとだけ寂しさとか、そういった気持ちが込められているような気がした。松田さんがどうしてそういう顔をしたのかよくわからなかった。
 やがて定時となり、一人駆け込みのお客を乗せたのを確認するとドアを閉め、僕は逆向きに走り始めた。
 さっきと同じところを走っているはずなのに、景色は新鮮だ。今まで右に見えていたものが左に、角度を変えて僕の目に飛び込んでくる。空は青く、東の空には太陽が輝いていた。松田さんは日よけの角度を調節した。線路脇に影を投げかけながら僕は走った。朝、起きたての鳥が、僕の走る音に驚いて、キッと鳴きながら飛び立った。
「あれはなんの鳥だろう、もずかしら」
「そうみたいやな」
 松田さんは始発駅から車で三十分ほどのところの郊外に小さな畑を持って住んでいた。休みの日には畑を耕して、今の季節ならじゃがいもを植えたり、えんどう豆の苗に添え木を刺したりするのだそうだ。もずは虫を食らいによく畑にもやって来るという。松田さんの、そんな話を聞いて、僕はずいぶん人の暮らしや鳥の名前を知るようになった。
「僕もだいぶ、鳥の名前がわかるようになってきたでしょう」
 松田さんは笑った。
 トンネルをくぐるとあたりは真っ暗に見える。その暗さに慣れたかと思うと僕はトンネルを抜ける。冬枯れた景色に朝日がまぶしくてかなわない。松田さんも目を細める。でも僕はお日さまが大好きだ。縮み上がっていた僕の鉄のボディーをあたたかく照らしてくれる。この時刻になると、きいんと引き締まっていた空気はゆったりとしたものに変わってくる。早春の草花の香りと重なった、気持ちのいい空気を吸いながら、僕はごとごとと線路の上を走った。
 始発だった大きな駅が近づくと、駅に止まるたびに、車内は混み合ってきた。座席は空きがなくなり、みんな行儀よく荷物を膝の上に載せて座り、座れないお客は立ったまま僕に揺られた。やがて僕のお腹はお客でずっしりと重くなり、駅ですれ違う他の列車たちと顔を見合わせ、そしてそれぞれ顔を真っ赤にして、黒い煙を吐いて、うんうんうなって発車した。
 でも僕たちなんてまだましな方だ。都会を走る電車のラッシュアワーはもっとすごいらしい。都会からやってくる寝台特急が教えてくれた。
「それでも電車はクールなものさ。まるでヘビみたいに何両も連結されていて、どんなにお客を詰め込んでも滑るように走るのさ」
 始発の駅に到着すると僕はすべてのお客を降ろしてほっと一息をついた。それぞれのホームで、多くのお客が列車から降りたり、乗り込んだりしていた。たくさんの人たちがおのおのの目的であっちに行ったりこっちに行ったりするのを見ると僕は目が回りそうになる。その向こうの改札口なんて、数人の駅員が左右に首を振りながら定期券を検分したり、切符にスタンプを押したりしている。忙しい、いつもの朝の風景だ。
「知ってるかい? 都会の駅なんか駅員がいやしないんだ。改札はみんな全部機械がやるんだ」
 これも寝台特急が教えてくれたことだ。
「駅員がいないのかい?」
「いや、少しはいるさ。でも圧倒的にお客が多いんだ。それはすごい数で、歩いていてよくぶつからないもんだと思うよ」
 僕は都会の駅を想像した。
「満員の車内みたいかい?」
「そうさ、でも都会では満員の車内っていうのはもっとぎゅうぎゅうなんだ」
 寝台特急にそういわれて、僕はぎゅうぎゅうになった人たちを想像しようとしたけれど、うまくできなかった。
 午前十時を過ぎたあたりから、駅をめぐる空気は次第にゆったりとしてくる。僕に乗り込んでくる人たちも、学生や会社員といった人たちじゃなくて、初老の女の人だったり、おじいさんだったりする。お日さまの光を浴びて、散らしたように咲くほのあたたかい梅の木をながめながら僕は走った。夕方のラッシュ前までの間は、一日のうちで一番あたたかい気持ちになれるんじゃないかと、僕は思う。この時間帯に、ゆったりとしたカーブを描きながら、田園風景の中を走ることができる僕は、とても幸せな気がする。松田さんもなんだかそんな気持ちみたいだ。かたたん、かたたんと僕は同じリズムでのんびりと走り続けた。座席のお客も時間の流れが止まったかのように穏やかだ。外の景色をながめたり、ときどき和やかにお話をしたりする。
「春やねぇ。梅祭りには行きましたかい」
「いいえ。去年は行きましたが、そら、きれいでしたよ」
「桜も楽しみですなあ」
 今年の桜の開花予想が発表されたばかりらしくて、お客たちはひとしきり花見の時期について語った。
「これから花の季節だね」
「そやなぁ」
 僕も松田さんに話しかけた。
 この時期、季節の流れは速い。咲き初めたばかりの梅は日を追うごとに咲きそろい、満開となった。沿線の土手には、枯れた草の隙間からつくしが顔を出し、僕がそばを走るたびに揺れ、胞子を風に乗せていた。線路のすぐそばにはすみれが咲いていた。僕はこのすみれという花がとても好きだ。一株にいくつもの花が寄り添うように咲いて、楽しそうに内緒話をしているみたいだ。
「僕ねえ、このお仕事大好きだと思うよ」
 僕は松田さんにいった。
「沿線の景色はきれいだし、それが季節ごとにいろんな表情を見せてくれるもの。でもね、僕、空を飛べたらどんなにかすてきだろうと思うよ」
 松田さんは僕の話を静かに聞いていたが、やがて笑ってこういった。
「そりゃ、飛んだら楽しかろう」
 そして遠い目をしていった。
「わしもなあ、若い頃は、若い頃はじゃよ。飛行機乗りになりたかったよ」
「本当?」
 なんだ松田さんだって僕と同じ気持ちでいた頃があったんだ。僕はすっかりうれしくなった。
「でもあんたは列車だ。わたしゃ、運転士だ。空は飛べんよ」
 松田さんはマスターコントロールハンドルを元に戻し、ブレーキハンドルに手をかけた。もうすぐ駅であることを示す標識を通り過ぎると徐々にブレーキをかけ始めた。
「でも僕はいつも同じところを走っているの、つまらないんだ。いや、つまらないことはないんだけど」
 僕はことばに詰まった。松田さんと話をしながら、この春の中を走ることになんの不服があるだろう。朝には朝の、夕暮れには夕暮れのきれいな景色を見ながら、沿線を往復することは、決してつまらないことではない。松田さんは、僕をホームに止めてドアを開け、お客が乗り降りするのを待った。
「なんていうか、単調な生活だと思うんだ。駅で止まってまた走って、毎日お客を運んで。それに僕はレールの上しか走れない。僕は空を飛びたいんだ。レールの上しか走れないのって、まるで檻に入れられてるみたいだ」
 松田さんはドアを閉めて、マスターコントロールハンドルに手をかけた。信号を確認してハンドルを動かした。僕は力を込めて車輪を動かした。
「じゃからといって、あんたに翼をつけるわけにもいくまい。列車は列車だよ。あんたにはかわいそうじゃが、ずっとレールの上を走り続けるしかないんじゃよ。わしももうすぐ定年やが、それまでずっと運転士じゃ」
 僕は松田さんの話をぼんやり聞きながら加速した。レールはどこまでも続いた。このレールが続く限り僕は列車として走り続けるのか。松田さんの定年のときがきても。
 午後のある時刻になると、運転士は交替となり、松田さんは勤務を終えた。
「ほな、お先にな」
 松田さんはマスターコントロールハンドルをそっと叩いて、運転席を立った。次に運転席に座ったのは、僕と話ができない運転士だった。それはそれで構わない。僕は運転士の操作通りに力を込めて走ったり、自動列車制御装置のいうとおりにホームに止まったりすればいいのだ。これが僕の仕事だ。そして時折、春の風を感じながら踏切を通り過ぎたり、鉄橋を走るとき響き渡る音をお腹で感じたり、トンネルで僕自身が出すディーゼルの煙にむせたりする。田んぼのれんげ草を揺らし、線路沿いの木の枝に留まったもずを脅かし、田舎の駅で静かに離合の列車を待つ。これが僕の生活だ。

 何日かあたたかい日が続き、ときどき思い出したように雨が降った。そしてまた、あたたかい日差しが僕たちを包んだ。梅の花は散り始め、らっぱ水仙がお日さまに向かって本当にラッパを吹いてるみたいに咲いた。
「桜の開花宣言があったようじゃな」
 ある午後、運転席に乗り込んだ松田さんがいった。
「このところ暖かだったものねぇ」
 ホームで出発を待つ僕の頭からは、うっすら煙が出ていた。
「とはいえ、見頃は一週間ぐらい先じゃろうなぁ」
 松田さんは満開の桜を思い浮かべているみたいだった。
「また今年も、お花見に行くの?」
 僕は尋ねてみた。
「どうかのう」
 松田さんは奥さんと二人暮らしで、娘夫婦に孫がいると聞いている。去年は満開の桜の下で娘夫婦とまだ小さい孫とお花見をしたそうだ。孫の話になると、松田さんはとても穏やかで幸せそうな顔をする。
 そのときだった。僕は見たこともない女の子が僕の中に乗り込むのを見た。松田さんは、まだお花見のことを考えているみたいだった。 
 僕はとてもびっくりした。なぜなら、女の子の背中には翼がついていたのだ。誰もそのことには気がついていなかった。女の子は、広げればその背の高さと同じくらいになるような広い翼を背中で折りたたんで、でもごく当たり前の格好をして、僕に乗り込み空いている座席に座った。
 松田さんは時計を見た。定時だ。乗客へのアナウンスが終わると松田さんはドアを閉めた。僕は松田さんに女の子のことをいえずにいた。運転中にそんなこといえるわけがない。女の子はとても静かに窓の外をながめていた。
 僕は線路のポイントを選り分けるように通って、次の駅を目指した。空は薄曇りで、町全体が霞んで見えた。
 女の子というより、彼女は少し大人だった。でも広げれば折れそうな翼は、彼女を女の子に見せていた。不思議なことにお客は誰も、女の子に翼があることに気付かなかった。女の子は箱形の座席に進行方向とは逆向きに座り、流れ去っていく景色に何度もさよならをいっているようだった。
 僕は女の子に話しかけたいと思いながら、それをためらった。僕の声が彼女に聞こえることは、こころのどこかで確信していた。それでも話しかけなかったのは、遠くを見つめる女の子の目が、周囲の誰からも話しかけられることを拒んでいるような気がしたし、松田さんにも聞こえるからだ。でも僕は尋ねたかった。
「君は誰? どうして人間なのに翼を持っているの?」
 そうとは訊けずに僕は同じリズムを刻んで走り続けた。かたたん、かたたん。ふと、松田さんが首を傾げた。ブレーキレバーを動かしたのだ。僕はあわてて松田さんの操作に反応して減速した。やがて次の駅が見えた。離合の列車が、僕を待っていた。
 女の子はさらに三つ先の駅で降りた。彼女が僕に乗って、やがて降りるまでの時間は、とても長いようで、でも気がつくとあっという間のことだった。その間、僕は彼女に気を取られて、何度か松田さんの指示を聞き漏らした。彼女が降りた後も、その日の仕事はどこか調子が出なかった。僕は女の子に話しかけられなかった残念さと、仕事をきびきびできなかった後悔とで、ため息をついた。夜、仕事を終えて列車庫に入るとき、松田さんが訊いた。
「今日はなんだか調子が悪いように見えたが、どうかい、見てもらったがいいかい」
「ううん、普段通りの点検だけで十分だよ」
 僕は首を振った。松田さんにはやっぱり僕が変だってわかっていたのだ。
「ちょっと考え事してただけだよ。だいじょうぶ。ごめんなさい」
「だいじょうぶかい。ほんならいいが。良くないときはいわにゃな。安全が一番やからな」
 今夜は薄曇りで、月も星も見えなかった。松田さんが僕のエンジンを切ると、あたりはしんと静まった。松田さんは僕のボディーをなで、見上げると、ほっとしたように僕から離れていった。あたりにはディーゼルの煙の匂いがまだ漂っていた。その小さな小さな塵が、静かにときをかけて地面に落ちると、遠くからじんちょうげの香りが漂ってきた。夜を貫く清冽な香りだった。
 僕は女の子のことを考えた。今までにたくさんのお客を乗せてきたけれど、翼を持つ人なんて初めて見た。彼女はあのたおやかな翼をどんなときに広げるのだろうか。背中に小さくたたんだ翼は白く、あたりの光を吸い込むようなつやを持っていた。広げれば軽く、やわらかく、しなやかそうに見えた。僕はふと思いついて、眠りかけていた仲間たちに話しかけた。
「なんだよ」
「なんだい」
 仲間たちは眠そうな目をこすって僕を見た。
「乗せたことがあるかい? 背中に翼のある女の子なんだけど」
 仲間たちは互いに顔を見合わせ、首を傾げた。
「乗せないねぇ」
「翼を持つ人なんているのかい?」
「見たこともないよ、そんな人」
 仲間たちは口々にそういった。
「そう、どうもありがとう」
 僕は目を閉じて眠りについた。真冬ほどではないけれど、空気は湿り気を帯びてひんやりと冷たくなっていった。あれは、幻だったのかもしれない。よく考えてみたら、いるわけがないのだ。翼を持つ女の子だなんて。

 雨は僕の気持ちを、いつもとは少し違うものに変える。
 この日、松田さんはお休みで、朝からしとしとと雨が降り続いた。線路も枕木も敷石も、雨に濡れて色を変えていた。僕のからだは、頭からびっしょりと濡れた。フロントガラスのワイパーがぎこちなく動いた。僕は雨つぶをかき分けるように走り、ホームに止まると、静かに雨に打たれる。雨は僕だけでなく、ホームのコンクリートを打つ。花壇の花を打ち、木々を打つ。向こうに見える田畑を打ち、山を打ち、その音は永遠に続くかのようにあたりに広がる。
 そして雨は土に染み込む。僕の知らないところで、川となり、その流れは次第に大きくなって、しまいには海にたどり着く。海の水は蒸発し、雲となって再び雨という姿になる。雨はめぐる。いつまでも続くサイクルをぼんやり考えながら、僕は信号が青になるのを待った。車内に人は少なく、湿ったあたたかい空気がこもっていた。
 駅には誰もいなくて、駅員があくびするくらい静かだった。もうそろそろ信号が変わるというとき、一人の女の子が改札を通ってホームに現れた。僕はどきっとした。あの子だ。翼を持つ女の子。彼女はこの前と同じように翼を背中で折りたたんだまま、差していた傘を閉じ、肩の滴を払って静かに乗り込んできた。僕はとてもどきどきした。今日の運転士は松田さんじゃない。僕が何をいっても聞こえない。
 運転士は、アナウンスの後ドアを閉め、マスターコントロールハンドルを動かした。出発時刻だ。僕はエンジンをぶるぶるいわせて加速した。
 どうしよう。話しかけるなら今だ。女の子が僕から降りないうちに、僕はどうしても彼女に話しかけたかった。僕は車内に響き渡るんじゃないかと思うくらいの音を立てて、ごくりと唾を飲み込んだ。そしてついに話しかけた。
「どうして君は翼を持っているの?」
 いってしまってから、僕は少し後悔した。いきなりこんなことを訊くなんて。いや、それどころか、女の子に僕の声が聞こえるのだろうか。
 女の子は静かに窓の外をながめていたが、何かにはじかれたようにぴくりと肩を動かした。僕の声が聞こえたのだ。
「急にこんなこと訊いてごめんね。でも初めてなんだ。翼を持った人を見るなんて。僕すごくびっくりしてるんだ」
 僕は夢中でしゃべった。それをさえぎるように彼女は話し始めた。
「待って。私、初めて列車に話しかけられた。列車でしょう? あなたは」
 女の子はとてもとまどった。車内を見回している。握りしめた手が緊張を表していた。僕は彼女の緊張をほぐしてあげなくちゃと考えた。
「列車だよ。でも驚かないで。僕たちだってお話くらいするんだ。みんなが気がついてないだけだよ。でも君ならきっとわかると思ったんだ」
 僕はちょっと嘘をついた。女の子が僕の声を聞けるかどうかなんて考えていなかった。でも僕はどこかで、彼女が僕の声を聞き取れると確信していたんだと思う。彼女は静かに息をついた。
「ちょっと信じられない」
「でも本当なんだ、たまにだけど他にも僕たちの話がわかる人がいるよ」
「それは運転士の人とか?」
「運転士だからって僕たちと話ができるとは限らないんだ。逆に運転士でなくても話ができる人はいるよ」
 僕は今までに僕のいうことがわかった人たちのことを女の子に聞かせた。松田さん、列車マニアの少年、そして手でお話をする女の人。
 女の子はボックス型の座席に一人座ったまま、首を傾けて頭をこつんと窓につけた。そしてふうんとうなった。僕のことについていろいろと頭をめぐらせているみたいだった。
「でも、翼って?」
 彼女が訊いた。
「私、翼なんて持ってないわ」
 僕は驚いた。
「だって、背中についてるよ。白い翼、折りたたんで」
「まさか」
 彼女は笑った。そしてはっとして周囲の視線を確かめた。人が少ない車内では、誰も彼女が笑っていることに気がついていないみたいだった。女の子は少しほっとして、でもこそこそと僕にいった。
「翼なんてないわ。そんなのが背中についてたら服だって着られないし」
「でも、見えるんだ」
 女の子は少し考えた。そして秘密を打ち明けるみたいにいった。
「ねえ、何をいっても笑わない?」
 僕は彼女が何をいうのか早く聞きたかった。
「笑わないよ」
 女の子はまた少し考えた。そして息をすうと吸い込んでいったん止めるとため息と一緒にこういった。
「私、空を飛んだの。たぶん飛べるんだわ」
「やっぱりそうなんだ。すごいや」
 僕は驚いた。
「ううん」
 女の子は首を振った。
「そうじゃなくて、そんな、翼をばたばたさせて飛ぶんじゃなくて、なんていうのかしら」
 彼女は視線を泳がせ記憶を辿るように話した。
「例えば、月の明るい夜にバルコニーに立つでしょう。もう夜中よ。星が瞬いていて、とてもきれいなの。私はなんだか、からだがとても軽くなって、バルコニーの柵を乗り越えて、空中にふわりと浮かぶのよ。正確にいうと、なんだかそんな気分になるの。でも、ほんとに飛んでるみたいなの。月に光る住宅街の屋根を見下ろして、たまに通り過ぎる車も見下ろして、空を飛ぶの。あたりはとても静かで、私は月の光に導かれるように空を飛ぶの」
 僕はぽおっとして女の子を見つめた。僕の頭の中で、星のきらめく夜空と、まぶしいくらい輝く大きな月と、月に照らされぼんやりと浮かぶ街並み、白い翼、女の子が断片となって映った。
「本当は空なんて飛んでないってわかってるの。でも星の瞬きや空から見た街の景色は、鮮やかに私の中に残っているの。こういうのって変だと思う。そうでしょ」
 僕は首を振った。
「わからない。でも、でもとてもすてきだ」
 女の子はほほえんだ。
「あれは幻想だか、想像だったのかもしれない」
 女の子は目を閉じて空を飛んだ夜のことを思い起こしているようだった。
 僕は運転士の指示に従って、速度を落とし始めていた。自動列車制御装置の警報が鳴る中、運転士はブレーキハンドルをさばいて、無人駅のホームに近づく僕をあやすように減速し、所定の位置にぴたりと止めた。運転士は警報を止めるとドアを開け、降車するお客から切符や運賃を受けとった。
 女の子の翼はお行儀よく折りたたまれたまま、彼女の背中にそっと寄り添うようについていた。僕はちょっと想像してみた。僕の背中に白い翼。大きく空に羽ばたき、重い金属でできた僕のからだがふわりと宙に浮かび上がるところを。
 運転士は乗降客の安全を確認して、アナウンスの後、ドアを閉めた。僕はあわててマスターコントロールハンドルの指示通り、お腹に力を入れて加速した。頭の上から、黒い煙が雨の中に散っていった。
 だめだ。僕のからだは重すぎる。
 気がつくと、雨は止んであたりはかすかな霧に覆われていた。霧は音もなく上昇をはじめ、空を覆う雲は明るくなりつつあった。女の子はこの間と同じ駅で僕から降りた。
 同じく下車する人たちにまぎれて、彼女は見えなくなっていった。彼女の後ろ姿を見送りながら、僕は彼女の背中だけについている白い翼について考えた。
 僕の声を聞ける人がとても少ないように、空を飛べる人もきっと少しなんだ。僕は飛べるんだろうか。飛びたい。飛んでみたい。

 ある夜、仲間たちに訊いてみた。
「みんな起きてる?」
「なんだい」
「なんだよ」
 仲間たちは僕を見た。まだ眠り込んでしまうには早い時間だったのか、仲間たちはみんな起きていた。
「みんなはさ、空を飛びたいなって思ったことある?」
 仲間たちはそれぞれ顔を見合わせた。
「ないな。君はあるかい?」
「いや、ないよ。君はどうだい?」
「さあ、考えたこともないね」
 仲間の中に誰一人として、空を飛んでみたいと思ったことがあるものはいなかった。僕は思いきって、いってみた。
「僕は飛んでみたいんだ。……変かな?」
 仲間たちは、再び顔を見合わせた。
「変じゃないさ」
「変じゃないよ」
 親切な仲間たちは口々にそういった。
「でも、なんていうのかな」
 仲間の一人がいいにくそうにこういった。
「僕たちはレールの上にいるものだよ。空を飛んだら、僕たちは僕たちじゃなくなるような気がする」
 仲間たちはそれぞれうなずいた。
「空を飛んだら列車じゃなくなるってこと?」
 僕がそう訊いてみた。
「飛行機になっちゃうのかな?」
 誰かがそういって、みんなくすくす笑った。きっと僕らのボディーに、飛行機の翼をとってつけたような姿を想像したに違いない。
「複数連結の列車は各車両に翼をつけなくちゃいけないの?」
「客車にはエンジンがついていないよ、どうやって飛ぶんだい?」
 特急電車たちが笑いながらみんなを見回した。
「いやだな。笑わないでよ」
「ごめん、ごめん」
「つまりさ」
 今まで難しい顔をしてだまっていた銀色ボディーの電車が口を開いた。
「俺達には生まれたときからの役割ってものがあるんだよ。列車は列車。飛行機は飛行機。それを忘れちゃおしまいさ。俺達、列車に生まれたんだぜ。これまでずっと列車だったし、これからも列車だ」
 みんなはだまり込んでしまった。それきり話は終わってしまった。僕は静かに目を閉じた。そのまま眠りにつこうとした頃、電車がふと口を開いた。
「おれなんか、空を飛ぼうにも架線がじゃまで飛べやしないもんな」
「君も空を飛びたいの?」
 僕は尋ねたけれど電車はだまっていた。
「架線がないところに行けば飛べるさ」
 僕はそういってみた。
「ばかだな。おれは電車だ。架線がなくて、どこからエネルギーをもらうんだよ。おれは列車として一番洗練された形になった代わりに、何かの可能性を失ったのさ」
 電車はそれだけいうとぷいと向こうを向いて眠り始めた。彼も空を飛びたいのだろうか、本当の気持ちを聞けないまま、僕は放り出されたような格好になってしまった。空を飛びたがる列車なんて、やはり僕だけだろうか。
 今夜は月さえ姿を見せていなかった。なま暖かいようないやな風が吹いて、厚い雲が夜空を支配し始めていた。みんなは静かに眠りについた。やがて僕もボディーがひんやりとしてきて、落ち込むみたいに眠りについた。

 翌日はやはりすぐれない天気だった。それでも昼過ぎまでは持ちこたえていたのだが、山の方からぽつぽつと雨が降り始めた。
 天気の崩れは時折ダイヤの乱れを生む。といってもそれはたいてい数分の遅れですむことだけれど。事故を防ぐための運転士の慎重な運転や様々な事情がほんの数秒の遅れを生み、それがやがて離合のための数十秒の遅れとなり、それが重なって数分の遅れとなる。
 僕を走らせながら、松田さんは不安げに空模様をながめた。雲は厚く低く、不吉なほど暗かった。始めのうち、雨はぱらぱらと降ったり止んだりを繰り返し、時折ぬるっとした風が僕のボディーをなでていたが、山裾を抜け谷あいに出たところであたりの空気は一変した。気温がぐっと下がり、向こうの山がさっと霧に包まれたように見えた。線路を走る、かたたん、かたたんという音とは別の、何か低くて地面を伝う音が、遠くから聞こえてくるような気がした。霧は周囲の山を隠し、僕に迫ってきた。
「ああ、こりゃあ」
 松田さんがつぶやいて、僕がなんだろうと思った瞬間、ばしっ、正面のガラスに何かが強く当たった。ばしっ、びしびしびしっ。僕は全身を大粒の雨に強く叩かれ、たじろいだ。僕を打つ雨は見る間に滝のようになった。こんな雨は初めてだ。山を包み、僕に迫ってきたのは霧ではなかった。叩き付けるほどの強い雨が、猛烈に襲ってきたのだ。
 僕はあわてた。
「松田さん、ワイパーが効かないよ。前が見えない」
「落ち着きなさい。あんたがあわてることはない、わしに任せておけばいいんや」
 松田さんは慎重にハンドルを動かし、少しずつ減速した。松田さんの声は穏やかで、僕を少しだけほっとさせた。でもその目はいつもより鋭くなっていて、ワイパーが走った後に一瞬だけ広がる視界をじっと見つめていた。
 僕の中のお客たちは突然の激しい雨にことばともため息ともつかないような声を漏らすと、みんな窓の外を見つめてだまり込んでしまった。遠くで重くて巨大なものを転がすような音がして、みんなはさらに息を詰めた。雷だ。
 それは大地を踏みしめながら次第に僕に近づいてきた。黒い雲がかっと青白く光ったかと思うと、振り上げた斧を一瞬頭上で静止させるような間が空く。そして斧は振り下ろされる。地面を割るような大きな音がずうんと響く。
 恐い。
 まもなく次の駅が近づいてくるはずだった。松田さんは豪雨で見づらいあたりの景色を見定めて、車内にアナウンスを流した。
「まもなく○○です。お降りの方はお忘れ物ないよう、ご注意ください」
 松田さんは赤信号を確認して、さらにブレーキをかけ駅に静かに滑り込んでいった。そして慎重なハンドルさばきでホームの定位置に僕を止まらせた。定刻よりやや遅れての到着だった。
「この雨では雨量計が動くかもしれんな」
 松田さんはそういった。雨量が一定の値を超えると僕たちは安全のため駅で待機をすることになっているのだ。
 雨は駅舎やホームを容赦なく叩き付け、雷はますます僕たちに近づいてきた。僕は静かにドアを開けた。お客の一人が憂鬱そうに空を見上げ傘を広げて、覚悟を決めたように僕から飛び出した。
 ちょうどそのときだった。
 かあっ。
 一瞬だけあたりがぱっと白くなり、空気が割れるような音がした。そして激しい地鳴り。雷が落ちたのだ。
 僕から飛び出したお客はわっといいながら駅舎に逃げ込んだ。僕の中のお客たちもはっと息をのんだり小さな悲鳴を上げたりした。滝のような雨はますます勢いを増した。
「春雷じゃな」
 お客の中の一人、荷物をいっぱい持った小さなおばあさんがそうつぶやいた。
「春雷の多い年は稲もなばも豊作やちゅうからな」
 おばあさんは穏やかにそういった。おばあさんの小さい目は恐い雷も激しい豪雨も通り越して、秋にたくさん実ったお米やくぬぎにすずなりのしいたけを見ているようだった。僕は空を見上げた。稲妻が走り風景を縦に破いて大きな音が轟いた。こんな恐ろしい有様を、おばあさんは豊かな実りのしるしだという。
「本当なのかな」
 僕は松田さんに尋ねてみた。
「本当なんだろうよ。あの人は自然と人々の関わり合いをずっと見ていたに違いない。自然がどんな作用で人々に豊かさをもたらすか」
 僕はおばあさんをじっと見た。おばあさんはずっと同じ姿勢のまま、小さな目で窓を見ていた。
 信号はなかなか変わらなかった。僕はドアをぽかんと開けたまま、雨に打たれ続けた。僕のエンジン音は叩き付ける雨の音にかき消されている。松田さんはじっと正面の信号を見つめた。お客のうち何人かは、いつもより長く駅に止まっていることに気がついているみたいだった。ホームには誰もいなかった。誰も降りない。誰も乗らない。松田さんはマイクで乗客にアナウンスした。
「信号停止です。しばらくお待ちください。いったんドア閉まります」
 松田さんはドアを閉めた。ばちばちと地面を叩く雨の音が、ドアを閉めたせいで遠くなった。乗客は少しほっとしたはずだ。
 雷が轟いた。どこか近くに落ちたような耳をつんざく音がしてお腹がどきどきした。
「信号変わらないね」
「こらあ、しばらく動けんかな」
 僕たちはそれきり何も話さなかった。信号が変わるのを待った。お客たちも待った。僕が走り出すのを待った。ときどき近くに雷が落ちて、みんなはっと息をのんだ。
 どれくらいたっただろう、ふっと力が抜けるみたいに雨が小降りになった。雷は相変わらず遠のいたり近づいたりしていたが、信号がぱっと青になった。
 松田さんが少しほっとした様子でハンドルをしっかり握った。
「やれやれ、行こうかのう」
 僕はエンジンをぶるぶるさせ、体中に力をみなぎらせた。
「たいへんお待たせいたしました。発車します」
 僕はゆっくりと動き始めた。車内のお客もほっとしたみたいだった。
「ダイヤが気になるが、飛ばしはせんよ」
 松田さんは慎重に運転した。暗い雷雲は僕の頭上に張り付いて、雷をどこに落とそうかと狙いを定めていた。雨足は少しゆるんだものの、相変わらず止むことはなかった。ここから先はまた山沿いを走る。僕はこの先の地形を思い出そうとしていた。急な崖はなかっただろうか、水はけの悪いところはなかっただろうか。線路上に少しでも異常があったら、僕はその手前で止まって事故に遭わないようにしなければならない。それはダイヤ通りに走るのよりも大事なことなのだ。僕はいつもより心持ち遅いスピードでしっかり前を見て走った。
 途中、急な斜面の迫ったところをいくつか通り過ぎた。松田さんは僕に徐行を指示し、僕も気をつけて走った。斜面の多くはしっかりと根を生やした木々が地面を捕まえ、土砂崩れや落石を防いでいたが、開発の手が伸びたところでは、赤い土が現れたっぷりと雨を含んでいて、僕を冷や冷やさせた。小さな鉄橋の下は、川がかなり増水していて濁った水が激しく流れていた。雷は相変わらず僕の周辺をねらい打ちしていたが、夢中で走るうち、あたりは少しずつ明るくなってきた。左側に山は迫っていたが、右の景色がさっと開け、次の駅が見えた。僕との離合を待つ列車がそこでじっとしていた。
「だいじょうぶかい。ひどい天気になったもんだね」
 僕を待っていた列車は心配そうにいった。上空ではまだ雷がごろごろやっていた。
「待たせてごめんね」
 僕はまず謝った。
「すごい雨だったんだ。嵐みたいな。向こうではまだひどい雨かもしれないから気をつけてね」
「参ったなあ。おれ、こういう天気苦手だ」
 離合の列車はぼやきながら発車した。彼が苦手なのは雨もだろうけど、どっちかというと雷に違いない。稲光がするたびにきゅんと身を縮めていた。
 信号が変わると、僕も発車した。街の大きな駅に向かって。しばらく走ると左手に迫っていた山はなくなり景色が大きく開けた。遠くの空が明るく見えた。大きな駅のある方角だ。雨は降り続いていたが雷はいつしか遠くなっていった。駅に帰ったらみんなに、すごい雨と雷のことを話してやらなきゃ。
 松田さんと僕はダイヤの回復に努めるべく先を急いだけれど、どれほど回復することもできなかった。大きな駅に近づくほど乗客は増え、乗り降りに時間がかかった。街はちょうど夕方のラッシュを迎えつつあった。雨がすっかり小雨になった頃、僕はいっぱいの乗客を抱え終点の大きな駅に着いた。
 駅はいつもよりやや混雑していた。ダイヤの乱れと雨のせいで乗客が増えているからだ。僕はホームに止まるとやっとの思いで乗客を吐き出した。
「ふう、やっと着いたよ。たいへんだったんだ。山沿いは雨と雷が激しくて」
 僕は隣に居合わせた電車にさっそく話しかけた。
「そう、たいへんだったね」
 電車はどこか素っ気なかったけれど、僕はちっともそんなことに気がつかなくて話を続けた。
「滝のような雨だよ。あんな雨ってあるんだねえ。雷も間近に落ちたんだ」
「僕行かなくちゃ、また後でね」
 電車はたくさんのお客を抱えて慌ただしく発車してしまった。松田さんはいつの間にか運転席を代わって、折り返し発車する準備を整えてながら構内の駅員と何か話していた。ホームと反対側にいた銀色ボディーの電車が、じっと僕をにらんでいた。
「お前さ、わかんないの?」
 電車はいった。僕はなんだかわからなくてとまどった。
「ラッシュだっていうのに、遅れて来やがって。みんな、お前との接続があるから、出発を待ち合わせてたんだぞ」
「だって雨が」
「ダイヤが乱れてんのはお前のせいだ。みんな取り返すのに必死なんだからな。どうせまた、空を飛ぶことでも考えてたんだろ」
 銀色ボディーの電車はそれだけいうとぷいと発車してしまった。
 そんな、ひどいや。雨のせいだ。信号で足止めされたんだ。僕のせいじゃない。僕はこれでも急いで帰ってきたんだ。安全にお客を運ぶために、気をつけながら、急いで帰ってきたんだ。
 僕はこころの中で叫んだ。でも誰も僕のいうことなんか聞いちゃいなかった。みんな忙しく働いていて、僕のことなんて気にかけてもいなかった。松田さんは駅員と話し終わると、時計をちらと見てから車内の乗客を確認し、ドアを閉めた。僕はエンジンをふるわせてゆっくりと発車した。僕はだまって走った。雨は静かに降り続いていた。
 僕はとてもかなしい気持ちで走り続けた。

 あの激しい雨の日から、気候は冷たい季節に逆戻りしてしまった。開き始めた桜の花は寒さに縮こまり、松田さんはせっかく芽を伸ばした畑のほうれんそうが、遅霜にやられないかと心配した。
 あの日の夜、列車庫に入ると、優しい仲間たちは口々に僕をなぐさめてくれた。
「たいへんだったねえ。嵐みたいな大雨だったんだって?」
「駅で足止めをくらったんだってね。いやあ、崖崩れや倒木がなくてよかったね。無事でなによりだよ」
 僕は顔の真ん中あたりがつーんとしてきて涙が出てきそうになったけど、一生懸命こらえた。
「みんな、遅れてしまってごめんね」
 それだけいうと、激しい雨やたいへんな雷や、お客を事故から守らなくちゃという緊張感、そして銀色ボディーの電車にいわれたことを思い出して、ぽろぽろと涙をこぼしてしまった。みんなわっとあわてて僕をなだめた。
「ダイヤが乱れたのは君のせいじゃないよ」
 涙を拭った僕は銀色ボディーの電車と目が合ってしまった。彼はみんなみたいに僕をなぐさめるでもなく、すました顔で僕を見ていた。
 あいつは僕のこと嫌いなのかな。そんなことをぼんやり考えながら、僕は昼下がりの郊外を走った。
 いつもの駅で、僕は翼を持つ女の子を乗せた。彼女はしきりにくしゃみをしたので僕は心配になった。
「かぜ?」
「そうじゃないと思うんだけど」
 女の子は鼻をくすんといわせた。
「かぜをひいたらたいへん。今週末には引っ越しをしなきゃいけないから」
 女の子はおでこを窓にこつんと当てて、日差しに目を細めた。今日は久しぶりのいい天気で昼前あたりからとてもあたたかかった。
 僕は女の子がいったことばの意味を少し考えた。
「引っ越しって」
「四月から大きな街の学校に行くの」
 僕は大きなカーブにさしかかり、からだを少し傾げて走った。運転士がプアンとホーンを鳴らした。踏切が向こうに見え、警報機の規則正しい音が次第に近づいた。
「せっかく友達になれたのに」
 と、僕はいった。彼女はふうっと頬をゆるめた。笑っているのだ。
「笑わないでよ」
 かんかんかんかん。警報機の音が耳のそばを通り抜け、去っていった。
「だって不思議なんだもん。列車と友達なんて。学校の友達にいったらきっと変に思われるわ」
 僕のからだはかあっと熱くなった。
「でもうれしい。そんなにたくさんお話したわけじゃないけど、友達っていってもらえるのはうれしい」
 運転士がブレーキをかけ始めた。もうすぐ次の駅がやってくる。
「私が遠くの街に行くことをかなしいと思わないでね。遠くの街で、どんなことが待っているか私にもわからないの。でもきっと良いことが待っていると思って旅立つの」
 旅立ち、の意味なら少しだけわかる。今まで僕はたくさんの旅立つ人を乗せてきた。みんな胸にわくわくするものとかどきどきするものを抱えて僕に乗り込み、特急電車や空港行きのバスに乗り換えた。女の子もそんなふうに新しい世界に旅立つんだ。
 僕は駅のホームにぴたりと止まり、反対方向からやってくる特急列車を待った。ホームの端では、餌でもあるんだろうか、二羽のすずめがしばらく地面をつつき、ぱっと飛び立った。彼らはいったん駅舎の樋に止まったが、すぐさま屋根の向こうに飛んでいった。

 翌日、僕は松田さんに話をしてみた。駅で乗客を降ろし、離合を待って一息ついているときのことだった。
「僕、やっぱり空を飛びたいんだ」
 松田さんは、しばらくだまっていたが、やがて静かにこういった。
「列車は飛べんものだよ」
 僕は松田さんに尋ねた。
「どうして列車は空を飛べないの?」
「列車は、飛行機でもない。鳥でもない。飛べんわな」
「それはわかってる。わかってるけど」
 それから松田さんはしばらくだまっていた。僕の足下から二本のレールがのびていた。僕はこのレールから離れることなく、一生過ごしていくのだろうか。
「僕見たんだ。そして話をしたんだ。翼を持っている女の子と。彼女は月夜の晩に空を飛んだんだ。彼女が飛べるなら、僕だって飛べる気がするんだ」
 僕はふと思いついて、松田さんに訊いてみた。
「ねえ、僕の背中に翼見える?」
「そんなものはないよ」
「お願い、僕の背中を見て欲しいんだ」
 信号は赤だった。離合の列車はまだ来ていなかった。松田さんは運転席を立って、ホームに落ちていた空き缶を拾い、ごみ箱に捨てた。そして僕の姿を振り返った。
「見えんよ、あんたはごく普通の気動車じゃ」
 松田さんは運転席に戻り、静かにハンドルを握った。僕はとてもかなしくなった。
「あんたの気持ちはわかるよ。でもな、望んでもできんことというのはあるんや」
 カーブの向こうから離合の列車が現れた。リズムのある振動と共に列車はホームに入り、ブレーキ音をあたりに響かせながら止まった。信号は青に変わった。松田さんはアナウンスをするとドアを閉め、静かにマスターコントロールハンドルを動かし、僕に出発を促した。僕はかなしい気持ちのまま、エンジンをぶるぶるいわせて動き始めた。
 僕は線路の上しか走れないただの列車だ。運転士のいうとおり、エンジンをふるわせたり、ブレーキをかけたりして、運行表通りに走るただの列車だ。軽油を入れてもらって、ときどきお腹や車輪の点検をしてもらって、朝になったら動きだし、お客を乗せては降ろし、夜には列車庫に入ることを日々繰り返す。
 松田さんも、仲間たちも親切だ。他の運転士やお客にだって、そんなに悪い人はいやしない。沿線の景色はきれいで四季それぞれにいろんな変化を見せてくれる。線路しか走れなくったって、いいじゃないか。
 僕は毎日をそう考えて過ごした。三分咲きだった沿線の桜は、町に近いものから次第に咲きそろい始めていた。それに伴ってやわらかな香りがあたりに漂った。
 その日、僕は午後から松田さんと仕事を共にした。花冷えというのだろうか、朝から曇って風が冷たかった。
「予報では午後から晴れるといっておったのにのう」
 松田さんはそういいながらマスターコントロールハンドルを戻して、ゆっくりとブレーキをかけ始めた。僕は金属のボディーをちょっと縮ませて、あやしい空模様をながめながら加速をゆるめた。踏切を減速しながら通り過ぎると、もうすぐ駅だった。遠くに赤い信号が見えた。自動列車制御装置の警報が鳴り始め、僕はさらに減速した。松田さんは警報のスイッチを切るとブレーキハンドルをいつものようにさばいて、僕を緩やかにホームへと滑り込ませた。
 僕は止まってドアを開けると、ふうとため息をついた。この駅では特急通過のため六分の停車を予定していた。ばらばらとお客が数人降りて、ホームには僕のエンジンの音だけがからからと響いた。
 それは一瞬の出来事だった。僕のボディーの脇を、何かが後ろからかすめ、こういったのだ。
「こんにちは」
 はずんだ声のそれは、黒くひらひらと宙を舞うとぴたりと動きを止め、空を切ってUターンしてきた。
「ほう、つばめやな」
 松田さんは目を細めてそういった。
 僕はとても驚いた。鳥たちは、僕が近寄るといつもエンジンの音に驚いて逃げてしまうのだ。
「僕、初めて鳥に話しかけられたよ。君、つばめでしょう? どうして僕に話しかけてきたの?」
 僕が興奮気味に話す間に、つばめは僕の脇を一往復半した。
「あんた、鳥に話しとるんかね」
 松田さんが驚いて僕にいった。つばめはさらに往復して、僕にこういった。
「だって、君のからだには僕たちと同じ姿があるよ。君は僕たちの仲間でしょう?」
「なんだって? 仲間だって?」
 確かに僕のボディーにはつばめのマークがあった。だから、僕はつばめと仲間同士だっていうのか。
「聞いた? 松田さん、僕はつばめに仲間だっていわれたよ」
 松田さんは首を振った。
「わたしゃ、つばめが何をいっとるのかわからんよ」
「僕のこと仲間だって。ボディーにつばめのマークがあるから」
 松田さんはうなずいた。
「ある。確かにあんたにはつばめのマークがある。翼を広げ、空を切るつばめの姿がある」
 つばめは僕のテールランプのすぐ後ろを横切り、宙に舞い上がった。君は僕たちの仲間でしょう? 僕は、つばめがいったことをもう一度頭の中でつぶやいた。仲間でしょう?
「そうだね。僕たちきっと、仲間だね」
 つばめはもう一度僕の脇をすり抜けた。そして宙を飛ぶ虫をぱくりとやると、僕にさよならして巣へと戻っていった。
 僕はしばらく呆然としていた。でもすてきな気持ちだった。遠くで踏切の音が聞こえ始めた。後ろから特急列車がやってきて、あっという間に僕のことを追い越していった。やがてレールの音が遠くにかき消されるまで、僕はぼんやりと空を見ていた。雲の裂け目から太陽が差し、あたりを照らし始めた。

 その夜、最後の仕事を終えて列車庫に入った僕は、車内を点検して回る松田さんにきりだした。
「僕、僕やっぱりね……」
 松田さんは僕のことばをさえぎった。
「飛びたいというんやろう」
 僕はだまってうなずいた。松田さんは何もいわなかった。ただ車内を点検し終わって運転席に戻ると運行表をバインダーからはずし、運転席のドアを開け、注意深くあたりを見回すと僕から降りた。みんな今日の仕事をすべてやり終え、あたりにはもう誰もいなかった。僕のエンジン音だけが、周囲に響いていた。松田さんは僕を見上げた。
「あんたの気持ちはわかった。だがあんた、本当に飛べるんかね。あんたの横っ腹にあるつばめのマーク、そりゃ、いってみれば希望の象徴だ。こころの翼だ。列車にだってこころはあるんやということはわしにもわかる。じゃがな、こころだけで飛べるんかね、それだけで、本当に飛べるんかね」
 松田さんはじっと僕を見た。まわりで他の列車たちが、松田さんと僕の話に聞き耳を立てて、静かに成り行きを見守っていた。
「本当はね、わかんないんだ。飛べるのかどうか」
 僕はだだっ子みたいに首を振った。
「でも飛んでみたいんだ。空を」
 松田さんは下を向いて、うんうんとうなずいた。しばらくうつむいていたけれど口を開いてこういった。
「今夜、飛ぶのかね」
 僕はうなずいた。うなずいてから、あれっと思った。今夜、僕は飛ぶのだろうか。僕は、僕ではない何かに手を引かれるように、今夜空を飛ぼうとしている。飛べるのかどうかも、わからないくせに。
 松田さんはしばらくじっと僕を見てこういった。
「明日になれば、またみんながあんたを待っとる。あんたがいなけりゃ、仕事や学校に行けなくなる人がでてくる。だから、必ず戻ってくると約束してくれるかのう」
 僕はうなずいた。僕を必要としてくれている人たちがいることを、改めて思い知った。僕は精いっぱい気持ちを込めてうなずいた。松田さんはそれを見届けると静かに僕から離れていった。
「松田さんは」
 僕は松田さんを呼び止めた。
「松田さんは一緒に飛んでくれないの?」
「わしにはもう、翼がないからな」
 僕から去っていく松田さんのからだは、いつもより小さく見えた。
 列車仲間たちが一斉に僕を見た。銀色ボディーの電車も見ていた。
「飛ぶの?」
「飛べるの?」
 僕はきりっと線路の先を見つめた。
「飛べるさ」
 僕の胸の中はさっきよりも少しだけ勇気の数が増えていた。
 気動車の一人がタンクのふたを開けていった。
「僕の軽油を持って行けよ。満タンにしておいた方がいい」
 すると他の気動車も口々に
「僕のも持って行けよ」
 とお腹を見せた。
「ありがとう、じゃあ、少しずつもらっていくよ」
 僕は軽油を譲ってもらって、お腹いっぱいになるとお礼をいった。エネルギーのことはこれで安心だ。
 皆が注目する中、僕は静かにお腹に力を込めてエンジンの回転数を上げた。そして車輪に力を込めると列車庫を抜け出した。仲間たちはやがて口々に僕を見送った。
「いってらっしゃい」
「がんばってね」
「おみやげに星のかけらを持って帰って」
「そんなの何にするの?」
「決まってるよ。宝物だ」
「どこに隠すの?」
「もう、つまらないこといってないで、ちゃんと見送ろうよ。いってらっしゃい」
「いいな、あいつ」
 最後につぶやいたのは銀色ボディーの電車だった。
 僕はこの銀色と、とうとう口を利かなかった。
 誰もいない始発駅を僕はそっと通り過ぎた。駅には出札の宿直がいて、大きな音を立てると気がつかれてしまう。
 駅から離れると、僕は次第に加速し始めた。空を見上げると満月が僕を照らしていた。月はとても静かで、いいようもなく清らかに見えた。深夜の踏切を通り過ぎ、鉄橋を轟音と共に走り過ぎた。足下の川は月の光できらめいて見えた。僕はどきどきし始めた。
「星が瞬いていてとてもきれいなの」
 女の子のいっていたことを思い起こした。小さな雲がぽっかりと浮かんで、満月に照らされていた。僕の影が僕にぴたりとくっついて一緒に走っていた。僕はさらに加速しながら緩やかな右カーブを傾きながら走った。カーブはやがて直線へと変わり、僕はさらに加速した。もうそろそろ次の駅だ。速度が速いから、まわりの景色は本当に飛ぶようだ。まだ僕のからだは空を飛ばないのだろうか。もっと加速しなくては浮かび上がれないのだろうか。もっとお腹に力を込めようとしたとき、僕は線路のずっと先にある、蛍光灯の白い明かりに気がついた。次の駅が見えた、そう思ったけれど何かがおかしいと気付いた。そう、明るすぎる。こんな夜中に。僕は速度を落として、注意深く線路の先を伺った。ホーンを鳴らしてみようかとも思ったけれど、深夜だからためらった。ブレーキをかけて、駅に止まることにした。レールの継ぎ目を通るたびに鳴るかたたんという音のリズムが次第にゆっくりとなり、ぶうううという鈍い音を立ててブレーキをかけ、僕はホームに近づいた。
 明かりを背にして立っている男の人が見えた。
「あれっ、松田さん」
 その姿が松田さんに似ていて僕はそう口にしていた。僕は男の人が立っている位置を通り過ぎ、ホームのぎりぎりで止まった。
「松田さんだ」
 彼は歩いて僕に近づいた。
「やれやれ、あんたは運転士がいなければきちんと停止位置に止まれんのだね」
 松田さんはにこにこしていた。僕は通り過ぎてしまった停止位置を振り向いて、ちょっと決まりが悪かった。
「どうしてここにいるの?」
「あんたが心配でな、そう、燃料を満タンにしてなかったと気がついて、あわててタクシーで来たんじゃ」
 僕はにっこりした。
「だいじょうぶ。お腹いっぱいだよ、仲間が少しずつ分けてくれたんだ」
「そうか」
 小さな駅に僕のエンジンの音が響いた。松田さんは本当にあわててこの駅に来たのだろう、まだ制服のままでいた。何かいいたいことがあるみたいだった。けれどだまって僕をながめていた。駅舎の蛍光灯が、ときどきふっと暗くなってはまた光った。
 僕は静かにドアを開けた。松田さんは何か尋ねるような顔になったけれど、やがて駅舎に戻って電灯を消した。そしてホームに帰ってきて僕に乗り込み、運転席に着いた。
 松田さんはドアを閉めた。進行方向の指差し確認をしてから、小さな声で「出発進行」とつぶやいた。そして、マスターコントロールハンドルをゆっくりと動かした。
 僕はエンジンの回転数を上げ、前進を始めた。松田さんの指示通り、次第にスピードを上げた。月はまぶしいくらいに僕を照らしていた。窓から差し込む月明かりに、松田さんも目を細めた。僕はだまって月を見た。松田さんもだまっていた。ただマスターコントロールハンドルだけはしっかりと握っていて、そこから松田さんの気持ちが伝わってくるような気がした。
 かたたん。かたたん。
 僕は線路にリズムを刻んだ。リズムは次第にほんの少しずつ早くなる。僕のからだは風を切るたび軽くなっていくようだ。左右の景色が飛ぶように去っていく。月だけが位置を変えない。松田さんと僕は月を目指す。
 かたたん、かたたん。
 緩やかな左カーブを抜けると、線路は向こうの山に向かってまっすぐ突き進む。僕も松田さんもことばには出さなかったけれど、そのまっすぐな線路が空を飛ぶための滑走路代わりなんだと決めていた。きゅっと松田さんの気持ちが引き締まるのがわかった。
 松田さんはマスターコントロールハンドルで僕にめいっぱいの加速を指示した。
 正面に山が見える。山の上には月が見える。僕は走った。エンジンをいっぱい回転させて精いっぱい走った。僕はどきどきした。
 ふわっとした感覚が僕を襲った。車輪に掛かっていた僕の重みが軽くなったような気がした。と思ったら、前の車輪が線路から離れた。
「あっ、あっ」
 僕はとてもあわてて、車輪をばたばた動かしてしまった。車輪は空回りし、台車が傾き、引きずられるように僕の車体が傾いた。
「落ち着いて、月を見るんじゃ、下を見ちゃならん」
 松田さんの声で、僕は前を見上げた。
 月なんか見えなかった。目の前に迫るのは山だ。だめだ。ぶつかってしまう。
 僕はブレーキをかけた。それと同時にからだががくりと沈んだ。台車が僕の重みを支え、車輪が線路に触れたとき、少しだけ火花が散った。山の真ん中に小さく開いたトンネル、僕は線路の導くまま、その中に飲み込まれていった。

 僕は駅のホームで泣いた。なんだか最近泣いてばかりだ。でも情けなくて涙が止まらなかった。
「泣くんじゃないよ。脱線しなくてよかった。無事でなによりや」
 松田さんは穏やかに僕をなぐさめた。
 さっきまでまぶしく光っていた月は、雲に隠れて見えなくなっていた。
「だって、飛べるはずだったのに。いざ、からだが宙に浮くと、僕、すっかり怖じけづいちゃって」
 松田さんはドアを開けて、ホームに降りると西の空を見上げた。
「残念やなあ、月が隠れてしもうた」
 小さな駅舎の向こうには桜の木が数本並び、夜の闇にぽんぽんとはたいたように、薄桃色の花を咲かせていた。花は薄明るい街灯に照らされて、こっそりとお話をしているように見えた。あたりはしんとして、僕の涙もエンジンのからからという音もみんな吸い込んでいくような気がした。
 松田さんはホームの端から端を、音を立てずにゆっくりと歩いた。僕は自分が次第に落ち着いてくるのがわかった。
 向こうの国道を車が一台通り過ぎていく。
「こうして、ホームをゆっくり歩くことなんぞ、運転士にはなかなかできんことだ」
 松田さんがつぶやく。夜の静けさと桜のかすかな香りを味わいながら、ホームをゆっくりと散歩する。
「僕、飛べなくて残念だったけど」
 松田さんはうなずく。春分を過ぎると夜明けは早い。僕はそろそろ列車庫に帰らなくてはいけない。
「きっとまた挑戦するよ。僕はもう怖がらないよ」
 松田さんはやはりだまってうなずいた。そしてしばらく僕をながめていたけれど、何か決心するようにして僕に乗り込んだ。元来た路を帰るから、松田さんはハンドルを取り外して後ろの運転席に移動した。
 松田さんは静かに席に着きハンドルをはめ込むと、計器の点検をさっと黙視で行った。そして静かにマスターコントロールハンドルを動かした。エンジンがぶるぶると回転数を上げ、僕はじわっと前進した。
 夜の闇を僕は進んだ。松田さんはだまっていた。踏切の音が僕たちを迎え、赤い光と共に見送った。ヘッドライトは正面の線路を照らす。枕木が僕の足下を流れていく。かたたん、かたたんというリズムに乗って。さっきまで、僕は自分が飛ぶことだけを考えていて、まわりの景色なんてまるっきり見ていなかった。夜はなんて静かで、澄んでいて、ひんやりとしているんだろう。
 松田さんは運転席の窓を開けた。
「こんな時間にあんたを走らすなんて二度とないことじゃ」
 窓から忍び込む風になぶられながら、松田さんは遠くを見ていた。いつか運転士という仕事を離れなければならないとき、松田さんは今夜のことを思い出してくれるだろうか。このひんやりとした風、大地の底から静まりかえるような夜をふたりで走ったこと。周囲に迫る、深い森を抱えた山々。谷あいの集落にぽつりと立つ街灯の薄明かり。僕たちの走る音が田畑に広がっていく。
 そのときだった。西に傾いた月が、雲間から現れた。その月明かりに照らされて、あたりの景色が青く浮かび上がってきた。松田さんと僕はまぶしくて目を閉じた。目を閉じてもまぶしくて僕の瞼の裏は真っ白になった。調子よくリズムを刻んでいた、かたたんかたたんという線路の音が、ふっと消えた。
 とても静かだ。
 僕はそっと目を開けてみた。雲が瞬く間に開けて、光る砂を散らしたみたいに星が見えた。松田さんも目を開けた。数え切れない星を見上げ、松田さんの顔は月に照らされていた。僕たちはまぶしく輝く月の中で、その影をくっきりと地面に映していた。線路を離れて。
 浮いてる。僕は宙に浮いてる。飛んでいるんだ。
 僕はただ目の前の星たちを見つめた。僕はいつも、たくさんのきらめく星たちから特に輝く星をつないで、星座を見つけるのだけれど、今はそれができない。どの星もみんな輝いているからだ。こんなに星がきれいなのは初めてだ。
 次第に上昇しながら、僕はまわりの景色に目をやった。月は、山をぼんやりと照らし、まだところどころしか耕していない田んぼを照らし、白く道路を照らし、小さな家々の屋根を照らした。
 そして、あれは桜だ。まるで雲を置いたかのように、ふんわりとまるく花が集まっている。それが、山肌にぽん、ぽん、線路沿いにぽんぽん、民家の屋根越しにぽん、薄桃色の花束を置いたように咲いている。
「ねえ、桜がなんだかたんぽぽの綿毛みたいだ」
 僕は松田さんを振り返る。松田さんはだまってうなずく。
 東の山の向こうに始発駅のある街が見える。きらきら星をちりばめたみたいに灯りがいくつもいくつも灯っている。あの街に僕の仲間がいる。僕が乗せた、手でお話をする女の人はどこにいるだろう。僕の写真を撮った、列車マニアの男の子はもっと遠くの町に住んでいるのだろうか。そしてつばめさん、今は民家の軒下でそっと翼を休めているだろう。
 月の光に導かれて、僕はさらに上昇した。始発の街の向こうに、きらきらと光るものがある。それは、僕が毎日鉄橋から見下ろす朝の川面に似ていた。
 海だ。あそこに見えるのは海でしょう。
 川よりも広く、深く、果てしなく遠くまで続く海を、僕は初めて見ることができた。波立つその表面は月の光を数限りなく反射してどこまでも広がっていた。
 では、遠くの大きな街はどこだろう。翼を持つ女の子が、引っ越すといっていた街。僕は四方を見回し、一角にひときわ輝く灯りの集まりを見つけた。
 僕たちは、つながっている。そんな気がした。いつもは見えない海も、遠くの街も、線路の向こうに必ずあるんだ。僕たちは線路でつながっていて、僕はみんなをつなげる役割をしてるんだ。そうでしょう、松田さん。
 僕は松田さんを振り返った。
 松田さんは静かにうなずいた。
 僕たちはしばらく空からの景色に見とれていた。ぼんやりと月に照らされた中、点々と灯りがともっている地上の景色は、さっきからずっとだまっている松田さんの胸に何を写しだしたのだろう。それは長年の運転士としての日々かもしれないし、小さな頃の想い出かもしれない。松田さんの横顔を見ながら、僕はそんなふうに考えをめぐらせてみた。
 やがて、すべての終わりを告げるように鳥の声が谷あいに響いた。ほととぎすの声だ。月は西の空に沈み、東の空にかすかな光が差した。

 その年の秋、松田さんは定年を迎えた。
 あれから、僕も松田さんも空の話をすることはなかった。松田さんは最後の仕事が終わると、僕のボディーに手をかけ、たくさんの思いを込めて
「ありがとう」
 といい、列車庫を去った。
 翼を持つ女の子はずっと乗せていない。特急電車が一度、彼女を乗せたといっていた。たくさんの荷物を抱えて、遠くの街で降りたそうだ。
 夏休みに、列車マニアの少年がまたやってきた。背丈がすらりと伸びて、別人みたいだった。この間とはまた違う一眼レフカメラを抱えて僕たちや駅の風景を撮影した。
「春休みはこいつを買うために必死になってアルバイトをしたんだ」
 急に夕立が襲ってくると彼はわあっと叫んでカメラをかばった。僕はその仕草がおかしくて吹き出してしまった。
 仲間たちに、空を飛んだことは話していない。銀色ボディーの電車とは、お互い何もなかったみたいに接している。ときどき彼はまじまじと僕を見る。僕が「なんだよ」というと「ううん、なんでもないよ」といって空を見上げる。
 どうして空を飛んだことを誰にも話さないのか、自分でもわからない。
 その年の暮れ、一枚の写真が僕たちのところに届いた。暑い夏の日、あの少年が撮影したものだった。
「この写真で賞をもらいました。列車と運転士さんによろしく」
 松田さんは僕の運転席で、正面をまっすぐ見つめてマスターコントロールハンドルを握っていた。

(完)



(C) Natsuya Kuroda 2002

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