吾輩は猫である

夏目 漱石



吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか頓と見當がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。吾輩はこゝで始めて人間といふものを見た。然もあとで聞くとそれは書生といふ人間中で一番獰惡な種族であつたさうだ。此書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話である。然し其當時は何といふ考もなかつたから別段恐しいとも思はなかつた。但彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフハフハした感じが有つた許りである。掌の上で少し落ち付いて書生の顏を見たのが所謂人間といふものゝ見始であらう。此時妙なものだと思つた感じが今でも殘つて居る。第一毛を以て裝飾されべき筈の顏がつるつるして丸で藥罐だ。其後猫にも大分逢つたがこんな片輪には一度も出會はした事がない。加之顏の眞中が餘りに突起して居る。そうして其穴の中から時々ぷうぷうと烟を吹く。どうも咽せぽくて實に弱つた。是が人間の飮む烟草といふものである事は漸く此頃知つた。
此書生の掌の裏でしばらくはよい心持に坐つて居つたが暫くすると非常な速力で運轉し始めた。書生が動くのか自分丈が動くのか分らないが無暗に眼が廻る。胸が惡くなる。到底助からないと思つて居るとどさりと音がして眼から火が出た。夫迄は記憶して居るがあとは何の事やらいくら考へ出さうとしても分らない。
ふと氣が付いて見ると書生は居ない。澤山居つた兄弟が一疋も見えぬ。肝心の母親さへ姿を隱して仕舞つた。其上今迄の所とは違つて無暗に明るい。眼を明いて居られぬ位だ。果てな何でも容子が可笑いとのそのそ這ひ出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。
漸くの思ひで笹原を這ひ出すと向ふに大きな池がある。余は池の前に坐つてどうしたらよからうと考へて見た。別に是といふ分別も出ない。暫くして泣いたら書生が又迎に來てくれるかと考へ付いた。ニャー、ニャーと試みにやつて見たが誰も來ない。其内池の上をさらさらと風が渡つて日が暮れかゝる。腹が非常に減つて來た。泣き度ても聲が出ない。仕方がない何でもよいから食物のある所迄あるかうと決心をしてそろりそろりと池を左りに廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這つて行くと漸くの事で何となく人間臭ひ所へ出た。此所へ這入つたらどうにかなると思つて竹垣の崩れた穴からとある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なものでもし此竹垣が破れて居なかつたなら吾輩は遂に路傍に餓死したかも知れんのである。一樹の蔭とはよく云つたものだ。此垣根の穴は今日に至る迄我輩が隣家の三毛を訪問する時の通路になつて居る。偖邸へは忍び込んだものゝ是から先どうして善いか分らない。其内に暗くはなる腹は減る寒さは寒し雨が降つて來るといふ始末でもう一刻も猶豫が出來なくなつた。仕方がないから兎に角明るくて暖かさうな方へ方へとあるいて行く。今から考へると其時は既に家の内に這入つて居つたのだ。こゝで余は彼の書生以外の人間を再び見るべき機會に遭遇したのである。第一に逢つたのがおさんである。是は前の書生より一層亂暴な方で我輩を見るや否やいきなり頸筋をつかんで表へ抛り出した。いや是は駄目だと思つたから眼をねぶつて運を天に任せて居た。然しひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出來ん。吾輩は再びおさんの隙を見て臺所へ這ひ上つた。すると間もなく又投げ出された。吾輩は投げ出されては這ひ上り這ひ上つては投げ出され何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶して居る。其時におさんと云ふ者はつくづくいやになつた。此間おさんの三馬を偸んで此返報をしてやつてからやつと胸の痞が下りた。吾輩が最後につまみ出され樣としたときに此家の主人が騷々しい何だといひながら出て來た。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けて此宿なしの小猫がいくら出しても出しても御臺所へ上つて來て困りますといふ。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顏を暫らく眺めて居つた。やがてそんなら内へ置いてやれといつたまゝ奧へ這入つて仕舞つた。主人は餘り口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜しさうに吾輩を臺所へ抛り出した。かくして吾輩は遂に此家を自分の住家と極める事にしたのである。
吾輩の主人は滅多に吾輩と顏を合せる事がない。職業は教師ださうだ。學校から歸ると終日書齋に這入つたぎり殆んど出て來る事がない。家のものは大變な勉強家だと思つて居る。當人も勉強家であるかの如く見せて居る。然し實際はうちのものがいふ樣な勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書齋を覗いて見るが彼はよく晝寐をして居る事がある。時々讀みかけてある本の上に涎をたらして居る。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帶びて彈力のない不活溌な徴候をあらはして居る。其癖に大飯を食ふ。大飯を食つた後で「タカチヤスターゼ」を飮む。飮んだ後で書物をひろげる。二三ページ讀むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。是が彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考へる事がある。教師といふものは實に樂なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寐て居て勤まるものなら猫にでも出來ぬ事はないと。夫でも主人に云はせると教師程つらいものはないさうで彼は友達が來る度に何とかゝんとか不平を鳴らして居る。
吾輩は此家へ住み込んだ當時は主人以外のものには甚だ不人望であつた。どこへ行つても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかつた。如何に珍重されなかつたかは今日に至る迄名前さへつけてくれないのでも分る。我輩は仕方がないから出來得る限り我輩を入れてくれた主人の傍に居る事をつとめた。朝主人が新聞を讀むときは必ず彼の膝の上に乘る。彼が晝寐をするときは必ず其脊中に乘る。是はあながち主人が好きといふ譯ではないが別に構ひ手がなかつたから已を得んのである。其後色々經驗の上朝は飯櫃の上夜は炬燵の上天氣のよい晝は椽側へ寐る事とした。然し一番心持の好いのは夜に入つてこゝのうちの小供の寐床へもぐり込んで一所にねる事である。此小供といふのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入つて一間へ寐る。余はいつでも彼等の中間に己れを容るべき餘地を見出してどうにかこうにか割り込むのであるが運惡く小供の一人が眼を醒ますが最後大變な事になる。小供は――殊に小さい方が質がわるい――猫が來た猫が來たといつて夜中でも何でも大きな聲で泣き出すのである。すると例の神經胃弱性の主人は必ず眼をさまして次の部屋から飛び出してくる。現に先達て抔は物指で尻ぺたをひどく叩かれた。
我輩は人間と同居して彼等を觀察すればする程彼等は我儘なものだと斷言せざるを得ない樣になつた。殊に吾輩が時々同衾する小供の如きに至つては言語同斷である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり。頭へ袋をかぶせたり。抛り出したり、へ-つ-つ-いの中へ押し込んだりする。而も我輩の方で少しでも手出しを仕樣ものなら家内總がゝりで追ひ廻して迫害を加へる。此間も一寸疊で爪を磨いだら細君が非常に怒つてそれから容易に座敷へ入れない。臺所の板の間で他《ヒト》が顫へて居ても一向平氣なものである。我輩の尊敬する筋向の白君抔は逢ふ度毎に人間程不人情なものはないと言つて居らるゝ。白君は先日玉の樣な猫子を八疋産まれたのである。所がそこの家の書生が三日目にそいつを裏の池へ持つて行つて八疋ながら棄てゝ來たさうだ。白君は涙を流して其一部始終を話した上どうしても我等猫族が親子の愛を完くして美しい家族的生活をするには人間と戰つて之を剿滅せねばならぬといはれた。一々尤の議論と思ふ。又隣りの三毛君抔は人間が所有權といふ事を解して居ないといつて大に憤慨して居る。元來我々同族間では目刺の頭でも鰡の臍でも一番先に見付たものが之を食ふ權利があるものとなつて居る。もし相手が此規約を守らなければ腕力に訴へて善い位のものだ。然るに彼等人間は毫も此觀念がないと見えて我等が見付た御馳走は必ず彼等の爲に掠奪せらるゝのである。彼等は其強力を頼んで正當に吾人が食ひ得べきものを奪つて濟して居る。白君は軍人の家に居り三毛君は代言の主人を持つて居る。吾輩は教師の家に住んで居る丈こんな事に關すると兩君よりも寧ろ樂天である。唯其日其日が何うにか斯うにか送られゝばよい。いくら人間だつてさういつ迄も榮へる事もあるまい。まあ氣を永く猫の時節を待つがよからう。
我儘で思ひ出したから一寸吾輩の家の主人が此我儘で失敗した話をし樣。元來此主人は何といつて人に勝れて出來る事もないが何にでもよく手を出したがる。俳句をやつてほとゝぎすへ投書をしたり新體詩を明星へ出したり間違ひだらけの英文をかいたり時によると弓に凝つたり謠を習つたり又あるときはヴァイオリン抔をブーブー鳴らしたりするが氣の毒な事にはどれもこれも物になつて居らん。其癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ。後架の中で謠をうたつて近所で後架先生と渾名をつけられて居るにも關せず一向平氣なもので矢張是は平の宗盛にて候を繰返して居る。皆んながそら宗盛だと吹き出す位である。此主人がどういふ考になつたものか我輩の住み込んでから一月許り後のある月の月給日に大きな包みを提げてあはたゞしく歸つて來た。何を買つて來たのかと思ふと水彩繪具と毛筆とワットマンといふ紙で今日から謠や俳句をやめて繪をかく決心と見えた。果して翌日から當分の間といふものは毎日々々書齋で晝寐もしないで繪許りかいて居る。然し其かき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。當人もあまり甘くないと思つたものかある日其友人で美學とかをやつて居る人が來た時に下の樣な話をして居るのを聞いた。
「どうも甘くかけないものだね。人のを見ると何でもない樣だが自ら筆をとつて見ると今更の樣に六づかしく感ずる。」是は主人の述懷である。成程詐りのない處だ。彼の友は金縁の眼鏡越に主人の顏を見ながら「さう初めから上手にはかけないさ第一室内の想像許りで畫がかける譯のものではない。昔し以太利の大家ア-ン-ド-レ-ア、-デ-ル、-サ-ル-トが言つた事がある。畫をかくなら何でも自然其物を冩せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獸あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然は是一幅の大活畫なり。どうだ君も畫らしい畫をかゝうと思ふならちと冩生をしたら」
「へー [♯訂:「へー 」→「へー、」]ア-ン-ド-レ-ア、-デ-ル、-サ-ル-トがそんな事をいつた事があるかい。ちつとも知らなかつた。成程こりや尤もだ。實に其通りだ」と主人は無暗に感心して居る。金縁の裏には嘲ける樣な笑が見えた。
其翌日余は例の如く椽側に出て心持善く晝寐をして居たら主人が例になく書齋から出て來て余の後ろで何かしきりにやつて居る。不圖眼が覺めて何をして居るかと一分許り細目に眼をあけて見ると彼は餘念もなくア-ン-ド-レ-ア、-デ-ル、-サ-ル-トを極め込んで居る。余は此有樣を見て覺えず失笑するのを禁じ得なかつた。彼は彼の友に揶揄せられたる結果として先づ手初めに吾輩を冩生しつゝあるのである。我輩は既に十分寐た。欠伸がしたくて堪らない。然し切角主人が熱心に筆を執つて居るのを動いては氣の毒だと思ふてぢつと辛棒して居つた。彼は今我輩の輪廓をかき上げて顏のあたりを色彩つて居る。我輩は自白する。我輩は猫として決して上乘の出來ではない。脊といひ毛並といひ顏の造作といひ敢て他の猫に勝るとは決して思つて居らん。然しいくら不器量の我輩でも今我輩の主人に描き出されつゝある樣な妙な姿とはどうしても思はれない。第一色が違ふ。我輩は波斯産の猫の如く黄を含める淡灰色に漆の如き斑入りの皮膚を有して居る。是丈は誰が見ても疑ふべからざる事實と思ふ。然るに今主人の彩色を見ると黄でもなければ黒でもない灰色でもなければ褐色でもない去ればとて是等を交ぜた色でもない。只一種の色であるといふより外に評し方のない色である。其上不思議な事は眼がない。尤も是は寐て居る所を冩生したのだから無理もないが眼らしい所さへ見えないから盲猫だか寐て居る猫だか判然しないのである。吾輩は心中ひそかにいくらア-ン-ド-レ-ア、-デ-ル、-サ-ル-トでも是では仕樣がないと思つた。然し其熱心には感服せざるを得ない。可成なら動かずに居つてやり度と思つたが先っきから小便が催ふして居る。身内の筋肉はむづむづする。最早一分も猶豫が出來ぬ仕儀となつたから不得已失敬して兩足を前へ存分のし首を低く押し出してあ-あと大なる欠伸をした。さてかうなつて見るともう大人しくして居ても仕方がない。どうせ主人の豫定は打ち壞はしたのだから序に裏へ行つて用を足さうと思つてのそのそ這ひ出した。すると主人は失望と怒りを掻き交ぜた樣な聲をして座敷の中から此-馬-鹿-野-郎と怒鳴つた。此主人は人を罵るときは必ず馬鹿野郎といふのが癖である。外に惡口の言ひ樣を知らないのだから仕方がないが今迄辛棒した人の氣も知らないで無暗に馬鹿野郎呼はりは失敬だと思ふ。それも平生吾輩が彼の脊中へ乘る時に少しは好い顏でもするなら此漫罵も甘んじて受けるがこつちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに小便に立つたのを馬鹿野郎とは酷い。元來人間といふものは自己の力量に慢じて皆んな増長して居る。少し人間より強いものが出て來て窘めてやらなくては此先どこ迄増長するか分らない。
我儘も此位なら我慢するが余輩は人間の不徳について是よりも數倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
我輩の家の裏に十坪許りの茶園がある。廣くはないが瀟洒とした心持ち好く日の當る所だ。うちの小供があまり騷いで樂々晝寐の出來ない時や餘り退屈で腹加減のよくない折抔は吾輩はいつでも此所へ出て浩然の氣を養ふのが例となつて居る。ある小春の穩かな日の二時頃であつたが余は晝飯後快よく一睡した後運動かたがたこの茶園へと歩を運ばした。茶の木の根を一本一本嗅ぎながら西側の杉垣のそばまでくると枯菊を押し倒して其上に大きな猫が前後不覺に寐て居る。彼は吾輩の近付くのも一向心付かざる如く又心付くも無頓着なる如く大きな鼾をして長々と體を横へて眠つて居る。他の庭内に忍び入りたるものが斯く迄平氣に睡られるものかと吾輩は竊かに其大膽なる度胸に驚かざるを得なかつた。彼は純粹の黒猫である。僅かに午を過ぎたる太陽は透明なる光線を彼の皮膚の上に抛げかけてきらきらする柔毛の間より眼に見えぬ炎でも燃え出づる樣に思はれた。彼は猫中の大王とも云ふべき程の偉大なる體格を有して居る。吾輩の倍は慥かにある。吾輩は嘆賞の念と好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立して餘念もなく眺めて居ると靜かなる小春の風が杉垣の上から出たる梧桐の枝を輕く誘つてばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王はくわつと其眞丸の眼を開いた。今でも記憶して居る。其眼は人間の珍重する琥珀といふものよりも遙かに美しく輝いて居た。彼は身動きもしない。双眸の奧から射る如き光を吾輩の矮小なる額の上にあつめて。御-め-へは一體何だと云つた。大王にしては少々言葉が卑しいと思つたが何しろ其聲の底に犬をも挫しぐべき力が籠つて居るので吾輩は少なからず恐れを抱いた。然し挨拶をしないと險呑だと思つたから「吾輩は猫である。名前はまだない」と可成平氣を裝つて冷然と答へた。然し此時余の心臟は慥かに平時よりも烈しく鼓動して居つた。彼は大に輕蔑せる調子で「何猫だ?猫が聞いてあきれらあ。全てえ何こに住んでるんだ」膸分傍若無人である。「吾輩はこゝの教師の家に居るのだ」「どうせそんな事だらうと思つた。いやに瘠てるぢやねえか」と大王丈に氣焔を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の猫とも思はれない。然し其膏切つて肥滿して居る所を見ると御馳走を食つてるらしい豊かに暮して居るらしい。吾輩は「さう云ふ君は一體誰だい」と聞かざるを得なかつた。「己れあ車屋の黒よ」昂然たるものだ。車屋の黒は此近邊で知らぬ者なき亂暴猫である。然し車屋丈に強い許りでちつとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的になつて居る奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に一方では少々輕侮の念も生じたのである。吾輩は先づ彼がどの位無學であるかを試して見樣と思つて左の問答をして見た。
一體車屋と教師とはどつちがえらいだらう。
車屋の方が強いに極つて居らあな。御-め-へのう-ちの主人を見ねえ丸で骨と皮ばかりだぜ。
君も車屋の猫丈に大分強さうだ。車屋に居ると御馳走が食へると見えるね。
何にお-れなんざどこの國へ行つたつて食ひ物に不自由はしねえ積りだ。御-め-へなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻つて居ねえでちつと己の後へくつ付いて來て見ねえ一と月とたゝねえうちに見違へる樣に太れるぜ。
追つてさう願ふ事に仕樣。然し家は教師の方が車屋より大きいのに住んで居る樣に思はれる。
箆棒めうちなんかいくら大きくたつて腹の足しになるもんか。
彼は大に肝癪に障つた樣子で寒竹をそいだ樣な耳を頻りとぴく付かせてあらゝかに立ち去つた。余が車屋の黒と知己になつたのはこれからである。
其後吾輩は度々黒と邂逅する。邂逅する毎に彼は車屋相當の氣焔を吐く。先に吾輩が耳にしたといふ不徳事件も實は黒から聞いたのである。
或る日例の如く吾輩と黒は暖かい茶畠の中で寐轉びながら色々雜談をして居ると彼はいつもの自慢話しを左も新しさうに繰り返したあとで吾輩に向つて下の如く質問した「御-め-へは今迄に鼠を何匹とつた事がある」智識は黒よりも餘程發達して居る積りだが腕力と勇氣とに至つては到底黒の比較にはならないと覺悟はして居たものゝ此問に接したる時はさすがに極りが善くはなかつた。けれども事實は事實で詐る譯には行かないから吾輩は「實はとらうとらうと思つてまだ捕らない」と答へた。黒は彼の鼻の先からぴんと突張つて居る長い髭をびりびりと震はせて非常に笑つた。元來黒は自慢をする丈にどこか足りない所があつて彼の氣焔を感心した樣に咽喉をころころ鳴らして謹聽して居れば甚だ御し易い猫である。吾輩は彼と近付になつてから直に此呼吸を飮み込んだから此場合にもなまじい己れを辯護して益形勢をわるくするのも愚である。いつその事彼に自分の手柄話をしやべらして御茶を濁すに若くはないと思案を定めた。そこで大人なしく[♯訂:「大人なしく」→「大人しく」]「君抔は年も年であるから大分とつたらう」とそゝのかして見た。果然彼は墻壁の缺所に咄喊して來た。「たんとでもねえが三四十はとつたらう」とは得意氣なる彼の答であつた。彼は猶語をつゞけて「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがい-た-ちてえ奴は手に合はねえ。一度い-た-ちに向つて酷い目に逢つた。」「へえ成程」と相槌を打つ。黒は大きな眼をぱちつかせて云ふ。去年の大掃除の時だ。うちの亭主が石灰の袋を持つて椽の下へ這ひ込んだら御-め-え大きない-た-ちの野郎が面喰つて飛び出したと思ひねえ」「ふん」と感心して見せる。「い-た-ちつてけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。此畜生つて氣で追つかけてとうとう泥溝の中へ追ひ込んだと思ひねえ」「うまく遣つたね」と喝采してやる。「所が御め-えい-ざつて-え段になると奴め最後っ屁をこきやがつた。臭えの臭くねえのって夫からってえものはい-た-ちを見ると胸が惡くならあ」彼は是に至つて恰も去年の臭氣を今猶感ずる如く前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻はした。吾輩も少々氣の毒な感じがする。ちつと景氣を付けてやらうと思つて「然し鼠なら君に睨まれては百年目だらう。君は餘り鼠を捕るのが名人で鼠許り食ふものだからそんなに肥つて色つやが善いのだらう」黒の御機嫌をとる爲めの此質問は不思議にも反對の結果を呈出した。彼は喟然として大息していふ。「考げえると詰らねえ。いくら稼いで鼠をとつたつて――一てえ人間程ふてえ奴は世の中に居ねえぜ。人のとつた鼠を皆んな取り上げやがって交番へ持つて行きあがる。交番じや誰が捕つたか分らねえから其た-ん-びに五錢宛くれるぢやねえか。うちの亭主なんか己の御蔭でもう壹圓五十錢位儲けて居やがる癖に碌なものを食せた事もありやしねえ。おい人間てものあ體の善い泥棒だぜ」さすが無學の黒も此位の理窟はわかると見えて頗る怒つた容子で脊中の毛を逆立てゝ居る。吾輩は少々氣味が惡くなつたから善い加減に其場を胡魔化して家へ歸つた。此時から吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。然し黒の子分になつて鼠以外の御馳走を獵つてあるく事もしなかつた。御馳走を食ふよりも寢て居た方が氣樂でいゝ。教師の家に居ると猫も教師の樣な性質になると見える。要心しないと今に胃弱になるかも知れない。
教師といへば吾輩の主人も近頃に至つては到底水彩畫に於て望のない事を悟つたものと見えて十二月一日の日記にこんな事をかきつけた。
○○と云ふ人に今日の會で始めて出逢つた。あの人は大分放蕩をした人だと云ふが成程通人らしい風采をして居る。かう云ふ質の人は女に好かれるものだから○○が放蕩をしたと云ふよりも放蕩をする可く餘儀なくせられたと云ふのが適當であらう。あの人の妻君は藝者ださうだ羨しい事である。元來放蕩家を惡くいふ人の大部分は放蕩をする資格のないものが多い。又放蕩家を以て自任する連中のうちにも放蕩する資格のないものが多い。是等は餘儀なくされないのに無理に進んでやるのである。恰も我輩の水彩畫に於るが如きもので到底卒業する氣づかひはない。然るにも關せず自分丈は通人だと思つて濟して居る。料理屋の酒を飮んだり待合へ這入るから通人となり得るといふ論が立つなら我輩も一廉の水彩畫家になり得る理窟だ。我輩の水彩畫の如きはかゝない方がましであると同じ樣に愚昧なる通人よりも山出しの大野暮の方が遙かに上等だ。
通人論は一寸首肯しかねる。又藝者の妻君を羨しい抔といふ所は教師としては口にすべからざる愚劣の考であるが自己の水彩畫に於ける批評眼丈は慥かなものだ。主人は斯の如く自知の明あるにも關せず其己惚心は中々拔けない。中二日置いて十二月四日の日記にこんな事を書いて居る。
昨夜は僕が水彩畫をかいて到底物にならんと思つてそこらに抛つて置たのを誰かゞ立派な額にして欄間に懸けて呉れた夢を見た。偖額になつた所を見ると我ながら急に上手になつた。非常に嬉しい。是なら立派なものだと獨りで眺め暮らして居ると夜が明けて眼が覺めて矢張り元の通り下手である事が朝日と共に明瞭になつて仕舞つた。
主人は夢の裡迄水彩畫の未練を脊負つてあるいて居ると見える。是では水彩畫家は無論夫子の所謂通人にもなれない質だ。
主人が水彩畫を夢に見た翌日例の金縁眼鏡の美學者が久し振りで主人を訪問した。彼は座につくと劈頭第一に「畫はどうかね」と口を切つた。主人は平氣な顏をして「君の忠告に從つて冩生を力めて居るが成程冩生をすると今迄氣のつかなかつた物の形や色の精細な變化抔がよく分る樣だ。西洋では昔しから冩生を主張した結果今日の樣に發達したものと思はれる。さすがア-ン-ド-レ-ア、-デ-ル、-サ-ル-トだ」と日記の事はお-く-びにも出さないで又ア-ン-ド-レ-ア、-デ-ル、-サ-ル-トに感心する。美學者は笑ひながら「實は君あれは出鱈目だよ」と頭を掻く。「何が」と主人はまだ偽はられた事に氣がつかない。「何がつて君の頻りに感服して居るア-ン-ド-レ-ア、-デ-ル、-サ-ル-トさ。あれは僕の一寸捏造した話しだ君がそんなに眞面目に信じ樣とは思はなかつたハヽヽヽ」と大喜悦の體である。吾輩は椽側で此對話を聞いて彼の今日の日記には如何なる事が記るさるゝであらうかと豫め想像せざるを得なかつた。此美學者はこんな好加減な事を吹き散らして人を擔ぐのを唯一の樂にして居る男である。彼はア-ン-ド-レ-ア、-デ-ル、-サ-ル-ト事件が主人の情線に如何なる響を傳へたかを毫も顧慮せざるものゝ如く得意になつて下の樣な事を饒舌つた。「いや時々冗談を言ふと人が眞に受けるので大に滑稽的美感を挑撥するのは面白い。先達てある學生にニ-コ-ラ-ス、-ニ-ツ-クルベ-ーがギ-ボ-ンに忠告して彼の一世の大著述なる佛國華命史を佛語で書くのをやめにして英文で出版させたと言つたら其學生が又馬鹿に記憶の善い男で日本文學會の演説會で眞面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であつた。所が其時の傍聽者は約百名許りであつたが皆熱心にそれを傾聽して居つた。夫からまだ面白い話がある。先達て或る文學者の居る席でハ-リ-ソ-ンの歴史小説セ-オ-ファ-ー-ノの話しが出たから僕はあれは歴史小説の中で白眉である。ことに女主人公が死ぬ迄は鬼氣人を襲ふ樣だと評したら僕の向ふに坐つて居る知らんと云つた事のない先生がさうさうあすこは實に名文だといつた。それで僕は此男も矢張僕同樣此小説を讀んで居らないといふ事を知つた」神經胃弱性の主人は眼を丸くして問ひかけた。「そんな出鱈目をいつて若し相手が讀んで居たらうどうする積りだ」恰も人を欺くのは差支ない。只化の皮があらはれた時は固る[♯訂:「固る」→「困る」]じやないかと感じたるものゝ如くである。美學者は少しも動じない。「なに其時や別の本と間違へたとか何とか云ふ許りさ」と云つてけらけら笑つて居る。此美學者は金縁の眼鏡は掛て居るが其性質が車屋の黒に似た所がある。主人は默つて日の出を輪に吹いて吾輩にはそんな勇氣はないと云はん許りの顏をして居る。美學者はそれだから畫をかいても駄目だといふ眼付で「然し冗談は冗談だが畫といふものは實際六づか敷ものだよ[♯訂:「よ」→「よ、」]レ-オ-ナ-ー-ド、-ダ-ヴィ-ン-チは門下生に寺院の壁のし-みを冩せと教へた事があるさうだ。なる程雪隱抔に這入つて雨の漏る壁を餘念なく眺めて居ると中々うまい模樣畫が自然に出來て居るぜ。君注意して冩生して見給へ屹度面白いものが出來るから」「又欺すのだらう」「いへ是丈は慥かだよ。實際奇警な語ぢやないかダ-ヴィ-ン-チでもいひさうな事だあね」「成程奇警には相違ないな」と主人は半分降參をした。然し彼はまだ雪隱で冩生はせぬ樣だ。
車屋の黒は其後跛になつた。彼の光澤ある毛は漸々色が褪めて拔けて來る。我輩が琥珀よりも美いと評した彼の眼には眼脂が一杯たまつて居る。殊に著るしく我輩の注意を惹いたのは彼の元氣の消沈と其體格の惡くなつた事である。我輩が例の茶園で彼に逢つた最後の日どうだと云つて尋ねたら「い-た-ちの最後屁と肴屋の天秤棒には懲々だ」といつた。
赤松の間に二三段の紅を綴つた紅葉は昔しの夢の如く散つてつ-く-ば-ひに近く代る代る花瓣をこぼした紅白の山茶花も殘りなく落ち盡した。三間半の南向の椽側に冬の日脚が早く傾いて木枯の吹かない日は殆んど稀になつてから我輩の晝寐の時間も狹められた樣な氣がする。
主人は毎日學校へ行く。歸ると書齋へ立て籠る。人が來ると教師が厭だ厭だといふ。水彩畫も滅多にかゝない。タカチヤスターゼも功能がないとかいつてやめて仕舞た。小供は感心に休まないで幼稚園へかよふ。歸ると唱歌を歌つて毬をついて時々吾輩を尻尾でぶら下げる。
吾輩は御馳走も食はないから別段肥りもしないが先々健康で跛にもならずに其日其日を暮して居る。鼠は決して取らない。おさんは未だに嫌ひである。名前はまだつけて呉れないが欲をいつても際限がないから生涯此教師の家で無名の猫で終る積りだ。



底本
ホトヽギス(第八巻第四号)/復刻版/日本近代文学館

渡部書店